被告池田大作創価学会名誉会長らの訴訟代理人弁護士が、私に行った反対尋問記録の続きをご紹介させて頂きます。
今回ご紹介する尋問は、石田廣行弁護士が担当されました。井田吉則弁護士とは異なり、紳士的な感じがしました。
なお、初めて、このブログをご覧になられる方は、以下に掲載している訴状をご参照下さい。
創価学会池田カルト一派との裁判シリーズ その3
http://wrpandora.blog.shinobi.jp/Entry/15/
創価学会池田カルト一派との裁判シリーズ その34
http://wrpandora.blog.shinobi.jp/Entry/68/
創価学会池田カルト一派との裁判シリーズ その40
http://wrpandora.blog.shinobi.jp/Entry/75/
記
被告ら代理人(石田)
平成20年2月14日のことについてですけれども,あなたは2月14曰に和田公雄さんが創価学会本部で査問をされたというふうにご主張されてますよね。
原告(髙倉)
はい。
被告ら代理人(石田)
先ほどは,その査問を行ったのは青年部幹部が行ったというふうにご主張されてましたよね。
原告(髙倉)
はい。
被告ら代理人(石田)
青年部幹部というのはどなたですか。
原告(髙倉)
その名前は和田氏が具体的に全員,それは自分は今回,もうすぐ提出する資料の中に,今回したかな,中に,その名前は全部分かってると言われました。
被告ら代理人(石田)
その幹部の中で,被告の原田会長とか山本副会長の名前はお聞きになってますか。
原告(髙倉)
和田氏からは直接,名前は出ておりません。
被告ら代理人(石田)
あなたは原告準備書面(7)で,2月14日の査問は原田会長と山本副会長が行つたんだというふうにご主張されてませんか。
原告(髙倉)
はい,それも多分含まれてると思います。
被告ら代理人(石田)
原田会長,山本副会長は青年部幹部ではないんじゃないんですか。
原告(髙倉)
はい,そうです。青年部幹部ではありません。
つづく
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外部一般の者が創価学会について理解する上で、信仰上の問題、とりわけ教義の問題は、殆んど世間一般に見えて来ないし、仮に一端が見えたとしても理解は容易のことではありません。
ブログ「 創価ニュース 」( 8月7日)によると、この度の学会本部完成に際し、「根本とする御本尊」を「学会常住御本尊」変更することが論議され、本部幹部会で会議が紛糾したと、伝えられています。
大半の外部者は、もともと創価学会を「新興宗教」くらいにしか考えておらず、日蓮の名を語り、法華経を売りにし、やたらと金を集める組織、政治団体化した組織くらいにしか考えて来なかったように思われます。
従って、外部の者は、創価学会は本山から破門され、「池田教」として完全に独立し、池田氏が独自に教義・御本尊を立ち上げてきたものと、大半が考えてきたように思われます。
平成3年、破門されて以降、聖教紙上で毎日のように汚い言葉で本山宗門を罵ってきたのだから、外部の者からすれば、それ以降も「 正宗教義」や「御本尊」( 摸刻させた御本尊 )を利用しているなど、思いがけもしないことでした。
私が池田氏の手作りした御本尊でないことを知ったのは、今から5年前、初めて本格的に創価問題を勉強し始めた頃からで、先ず疑問に感じたことは、なぜ、創価学会は 「新宗教」として堂々と、「池田教」を立ち上げ、学会独自の「教義」と「御本尊」を安置しないのだろうか、ということでした。
そのことの理解にあたっては、創価学会の『 御本尊問題 』は、平成3年に破門されて初めて起きた問題ではなく、既に『 52年路線問題 』(第一次宗門問題)から始まっていたところまで遡らなければなりません。
そこで、「52年路線問題」が沸騰していた前後の創価学会の歴史を、重要事項を中心に振り返ってみたいと思います。
*昭和43年 『これが創価学会だ』( 植村左内著45年刊)出版妨害。
*昭和45年 『創価学会を斬る』( 藤原弘達著)出版妨害。
『私が教わったのは帝王学だ。私は最高権力者になる。』
*昭和47年 大石寺正本堂が完成。学会が「 題目の商標登録」を申請。
*昭和48年 学会に下付された「 紙幅御本尊」を勝手に板御本尊に摸刻。
*昭和49年 池田会長が「 創共協定」を結ぶ。パナマ・ノリエガ将軍と対談。
宗門支配の画策が「山崎・八尋文書」、「北条文書」で露見。
*昭和50年 創価学会が秘密裏に「 御本尊」を8体摸刻。 SGIが発足。
*昭和51年 「 月刊ペン事件」( 池田氏の女性スキャンダル報道で告訴 )
『 天下をとらない党ならやる必要はない。』
昭和52年 池田氏が「 仏教史観」を語り、「教義逸脱路線」問題※ が起きる。
*幹部へ宗門との交戦を檄発言。僧侶吊し上げ事件が相次ぐ。
『大聖人は700年前にご出現されたが全然広まらなかった』
*昭和53年 日達上人が池田氏を厳しく指南。創価学会がお詫び登山。
「御本尊」摸刻の問題が発覚。摸刻の7体を本山に納める。
「教義逸脱」について是正。宗門の質問に学会が回答。
*昭和54年 池田氏が総講頭、創価学会会長を辞任。
池田氏が「学会の私物化」を宣言。「永遠の師」発言をする。
☆羽柴増穂:「創価学会からの脱出」(週刊サンケイに連載。)
昭和55年 山崎正友弁護士を解任。原島嵩教学部長を除名。
御法主上人を大聖人と仰ぐことを宣言(50周年記念幹部会)
昭和57年 ペン事件裁判で池田氏が出廷。 狂乱財務が始まる。
※ 昭和52年、「 教義逸脱路線 」の主なものは、
〇 創価仏法の原点は、戸田会長の獄中の悟達にある。
〇 唯授一人の血脈否定。人師・論師は無用。大聖人に直結。
〇 小説・人間革命は現代の御書。
〇 池田会長は主・師・親三徳、久遠の師である。
〇 寺院は単なる儀式の場、会館は広布の道場。
〇 供養は在家でも受けられる。・・・・・というものでした。
< 次回に続く >
しかし、実際には、それらの逸脱はいっこうに改められず、池田大作の責任を問う声が一層激しくなり、昭和54年4月、池田は総講頭の辞任を申し出、同時に創価学会の会長も辞任したのです。
日顕上人は学会の懺悔を心から信頼し、学会をかばい、大半の一般会員も僧俗和合を信じてきていたはずです。
その後、創価学会は、「教義逸脱路線」と御本尊摸刻の問題で宗門へ謝罪の姿を見せながらも、実は反省どころか、学会員を引き連れて宗門から分離独立する企み、謂わば、学会による「宗門支配路線」へ向けて「逸脱路線」を着実に推し進めていったのです。
こうした「宗門乗っ取り」の画策を進展させながらも、「御本尊」と「教義」だけは学会独自のものを完全には成立させることはできず、後々まで「ゆがみ・ねじれ」を残すことになり、今日までのような創価学会の姿を迎えることになります。
「本尊摸刻事件」が発覚し、勝手に作った7体の御本尊を本山に納めた(53年9月)とは言うものの、御本尊を勝手に摸刻したということは、どんな理由を述べようとも、全信徒に模範を示すべき総講頭の立場にありながら、池田氏は尊崇根本の大御本尊への信心、日蓮正宗への信心がなくなっていたことを全会員に露わにし、学会内に大きな衝撃を与えることになったのです。
昭和54年、宗門に全面謝罪した形をとった学会は、表面上の恭順とは裏腹に、将来再び日蓮正宗と対決するための『 宗門対策室 』(黒い集団)を設置し、正宗を攻撃するための資料集収・理論武装を密かに進めることになります。
この影の、教学部的存在の「宗門対策室」が、最終的に何をめざしているのか?
それは、第一に、唯授1人・血脈相承の法体系を否定すること。
第二に、本門戒壇の大御本尊を大聖人の本懐の御本尊でないと否定すること。
第三に、池田大作氏を末法出現の本仏にまつりあげ、創価仏法を旗揚げすること、であったのです。
こうした学会の状況を背景にして、大御本尊と法華経の信仰の篤い学会員は、日蓮仏法を悪しく用いる学会の「池田崇拝」に失望し、相当数の優れた信者を失うところとなったのです。
これら学会の変質、池田路線を糺そうとした原島嵩氏の忠告は受け入れられず、55年に原島嵩氏は解任され、後に内部告発書を著すことになります。
内部造反勢力や宗門との闘い、メディア等の外部批判勢力との闘いなど、これらを前に学会の基礎固めは、何と言ってもまずは「 金、金、金、・・・」であったのでしょう。 仕様を57年以降の狂乱財務が威力を発揮するようになるのです。
5年前、私が学会問題の学習で最も早く出あった、「52年路線問題」の頃の創価学会について内部告発した書籍の一節をお届けします。
★ 『 創価学会からの脱出 』 ( 昭和55年5月 羽柴増穂著 )
< 自由と平和と平等と、人間相互の人格を尊重する今日の民主主義社会にあって、なにが、いま、もっとも問われているのであろうか・・・・。
日蓮大聖人の仏法とは、まず、己れの心と行いを改め、自らの成仏をねがう修行なのではなかろうか。 信仰とは、人の『 心の問題 』ーーと私は思う。
いかに大聖人の仏法を求める信心を重ねても、その実践を怠り、信心の徹底を怠ったなら、身、口、意の三業は無に帰してしまう。仏道の修行とは、信心の深化と、浄化による、行いの誠実さにこそあるーーと思われる。憎しみや、慢による行動は、大聖人の仏法を求める姿とは言えない。
『 広宣流布のためなら、何をしてもよいーー』 という驕りが、今日の、創価学会の悲劇を生み、挫折を招いた。自分たちの言動を『 すべて、広布のためーー 』と、正当化しようとする根源的誤まりが、御本尊偽造、題目の商標登録、御僧侶吊し上げ、宗門支配ーーという、未曾有の大謗法に繋がった。
この、池田構想を挫折させることこそ、人間の『 慢 』に対する「天誅」でなくてなんであろう。正法正義を信奉することの厳しさ、謙虚さこそ互いに、不滅の道標とすべきと思う。
私たちは、地獄の業をつまぬため、正法を正法として厳護し奉るを第一義とし、日々、手続きの師匠のもとで、信心に励むものである。
いまこそ、心して信心を磨き、真に大聖人の仏法を求める、新しい『 広布大道 』の発見に努めることこそ、一大急務と考える。
” 命限りあり 憎むべからず 遂に願うべきは仏国土なり ”
昭和55年5月 羽柴増穂 合掌
◇ 上記 羽柴増穂氏の書籍の一節にこめられた想いは、33年の歳月を経ても、外部の私にでさえ胸に響くものがあります。
恐らく、当時の内部の人はもとより、外部の人でさえ多くのものを感じ取られたに違いないと推察できます。
その後間もなく、山崎正友、藤原行正、龍 年光、など、創価学会・公明党の重鎮が次々と学会から離反し、更に、内部告発書を著していくことになります。
こうした歴史の振り返りから、ぜひ、学会員の人に聞いてみたいことがあります。
〇 昭和50年から60年頃を生き、当時、真摯に信仰を求めていた青年・壮年の学会員さん(現在55歳~ 70歳)は、当時の状況を振り返る時、どのような感慨にを持たれるのでしようか?
〇 そして、「52年路線問題」を知っていて、そして、その後の学会の変質を知りながら、なぜ、今もなお、創価学会にとどまられているのでしようか?
〇 あなたにとって、これまで、「 広宣流布 」とは何だったのでしようか?
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大学と各種の専門学校で、法律学、哲学、社会学、家族社会学、家族福祉論、初等社会、公民授業研究、論理的思考などの科目を担当しています。
KJ法、マインド・マップ、ロールプレイングなどの技法を取り入れ、映画なども教材として活用しながら、学生と教員が相互に学び合うという参画型の授業を実践しています。現在の研究テーマの中心は、法教育です。
私は命ある限り、人間を不幸にする悪と闘い抜く覚悟です。111歳までは、仕事をしようと決意しています。