証人尋問の記録の続きをご紹介させて頂きます。
記
原告代理人(生田)
この日記というのを奥さんに渡しますね。
原告(髙倉)
はい。
原告代理人(生田)
それはいつのことですか。
原告(髙倉)
それはたしか・・・2007年か8年,8年か9年か,それぐらいの 10月です。
原告代理人(生田)
10月何日か分かりますか。
原告(髙倉)
10月の息子の誕生日の頃に渡そうと思っておりました。そういう計画をその2か月前か,それぐらいに考えました。
原告代理人(生田)
10月何日ですか。
原告(髙倉)
息子の誕生日は10月16日です。
原告代理人(生田)
その頃,渡そうと思ってたと。
原告(髙倉)
はい。
原告代理人(生田)
日記を渡すに当たって,誰かに相談しましたか。
原告(髙倉)
野崎さんという元創価学会の副教学部長と,それから息子に相談しました。
原告代理人(生田)
渡したときは,日記の分量はどれぐらいになってましたか。
原告(髙倉)
日記はコピーをしたものを製本して,自分では数えなかったですけど, 製本したものが全部で6冊,計1000頁ぐらいになったと思います。
原告代理人(生田)
その日記の中身の概略といいますか,大体どういうことについて書いてるんですか。
原告(髙倉)
1つは私と妻とのやりとり,それからいろんなブログ書籍等で書いてあった創価学会に関する記事,それから特に具体的な,会館の中で展開される選挙活動の実態とか,あるいはほかに大学のことも書いておりますし,自分のいろいろ受けた研修で考えた,そういうふうなもの,諸々書いております。
原告代理人(生田)
それを創価学会関係者が見て,価値のあるものですか。
原告(髙倉)
・・・それは私には分かりません。
原告代理人(生田)
奥さんが見て,奥さんの自分の創価学会に対する考え方を変更しようという ことに役立つことなんですか。
原告(髙倉)
私はマインドコントロ一ルに関する知識が当時なかったので,そういう文章を読めば,自分なりに考えるだろうと思いました。
原告代理人(生田)
奥さんが自分なりに考えてくれるだろうと思ったということで渡したと。
原告(髙倉)
はい。
原告代理人(生田)
それが2007年から9年10月16日頃と。
原告(髙倉)
はい,そうです。
原告代理人(生田)
7年,8年,9年,どれかに特定はできないんですか。
原告(髙倉)
2014年ですから,ちょうど今,妻が出ていってから7年目に入っ てから・・・2007年10月だったと思います。2007年だった んじやないかな,2008年。そのあたりはちょっと。
原告代理人(生田)
どっちなんですか。
原告(髙倉)
ちょっと待ってください・・・今が6年だから2014年の。2008年だと思います。
原告代理人(生田)
2008年10月16日。
原告(髙倉)
10月15、16日だったろうと思います。
つづく
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記
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≪ 結党50年の節目に取り返しのつかない大きな過ちを犯してしまいました。る平和憲法を葬り、戦争への道を開く集団的自衛権の行使容認は歴史に刻印、消すことのできない汚点として後世に長く糾弾されるでしょう。 胸張り裂ける想いです。
公明党を蘇生させるには解党しかありません。立党の原点に立つ新生公明党が出発できるかどうか、国の命運を決する覚悟で討議し、検討してもらいたい。
『 現執行部は被告人 』と自覚すべきです。
そもそも自民、公明の2党だけで決める事柄でもないにもかかわらず、政権離脱のカードを早々と自らが封じ、退路を断った上で自公協議になぜ臨んだのか。
「個別的自衛権に匹敵する集団的自衛権であれば許される余地がある」とは、一体何事ですか。個別的自衛権と集団的自衛権には自国が攻撃されているか否かに明確な一線があります。両者はまったく異質のものです。集団的自衛権をどんなにこじつけても、個別的自衛権の枠の中に取り込むことができません。
自国が攻撃されていないのに他国に武力行使する個別的自衛権などあろうはずがありません。このことは、多くの憲法学者も政府も、そして内閣法制局も認め、国会議論を経て確立されてきた確固不動の理ではありませんか。
「 匹敵する」などとまやかして、土壇場でよろめき変節して、邪義に屈する万死に値するとはこのことです。政治不信を招いた罪は計り知れません。
「 絶対権力は絶対に腐敗する」この戒めが不幸にして現実のものになってしまいました。
政権に恋恋としたのです。立党の大義よりも、平和の政治よりも、政権という魔性に屈したのです。公明党は腐ったと断じてはばかりません。最初から自民と公明だけで世間をずる賢く誤魔化しながら、集団的自衛権容認へ妥協すると決めて「 政権離脱はしない 」と公言した、と捉えても反論の余地はありません。結果が物語っているからです。腐った執行部に「 仁王立ち」になり、身体を張って諫言する正義の勇者はいなかったのか。残念でなりません。
地方議員は健全です。彼らは立党の原点を忘れず、草の根で地域の人々とともに、人々のために日夜を分かたず必死に頑張っております。悪しき権力と闘い、常に大衆の側に立って、人々の幸せのために懸命に汗を流しています。真面目で誠実です。地域から信頼されています。そんな彼らに公明党の未来を見出そうと願うばかりです。 = 以上 一部転載
◆ 私は、ある意味、この方はとてもまじめで、誠実な方と感じられた。恐らく、この人物は堅実に仕事をこなし、地域の人々への協力や奉仕を惜しまない好人物であろう。
しかし、同時に、外部の私には、ここで見られるこのSさんの生き方考え方については、これでいいのかな? と強く感じられるものがあった。
そのことについて、感じたまま、率直な感想を述べてみたい。
内部の皆さんは、この方の考え方・生き方についてどのように感じられるのだろうか。
この方に共感する学会員は活動家の一部にあると思うが、創価学会の全体からすれば多数派ではないように思われる。
大半の活動家は、公明党が時に誤まりを犯しても、いずれ創価学会本流はそれを矯正するだろうし、池田先生が間違った指導をされるはずがない、さらにご本尊様も見守っておられるので、上からの指示どおりに、新たな活動に励めばいいのだ、と考えているように見受けられる。
公明党の執行部があれだけ苦労しているのだから、それぞれの会館に集結して、「 集団的自衛権行使容認」の問題で話し合っているのかというと、そんな気配はほとんど感じられなかった。
事実、あれほど盛り上がっていた「解釈改憲」への厳しい批判活動も今は全く沈静化している。それどころが、選挙運動を信仰として疑わないまじめな? 学会員はさっさと次の統一地方選挙への取り組みで気持ちは早くも昂揚しているようである。
このような人たちには『 ガス抜き 』も必要がないようである。ガスが溜まっていないからだ。
この方Sさんは、戸田会長時代からの学会員さんのようで、日蓮仏法への真摯な信仰を持っておられるようだが、池田氏の時代になってから、創価仏法は日蓮仏法から大きく外れてきているという疑問は持たれていないようである。
この方は、公明党幹部と学会の一部幹部は腐敗の極みであると憤ってはいるものの、創価学会の「本来の姿」、池田名誉会長の「教え」に立ち戻れば、公明党は「理想の姿」を取り戻し得ると、確信しているようだ。
公明党の幹部の一部が、公明党を本来の「平和の党」に戻したい、また、そうでなければならないと考えている人はいるだろう。しかし、昔の理想とする「党の姿」を汚され踏みにじられたと考えるということは、
公明党は、本来から「平和の党」であり、創価学会は三代にわたって「唯一絶対の仏教」である、と考えているということだ。
そして、それを地方の議員、そして若い真面目で誠実な若者に期待を託したいと考えているようである。
公明党執行部を被告人とし、総反省させることによって、改革し再出発させればそれでよいのだ、としているようである。
なぜこのような公明党になってしまったのか、どこまで掘り下げて考えれば「その原因を究明」することができるのか、というところまでは考えが及ばないのだろう。
この方も大いに批判的精神を発揮しているようにみえても、所詮は、学会本部派にとって都合のいい『 創価脳 』でしかないのだと、私は考えざるをえないのである。
それにしても、創価学会のマインド・コントロールは奥が深いなー、とただただ関心するばかりである。
公明党が、世間一般からそして内部改革派からどんなに叩かれようとも、創価本体と先生に傷がつけられさえしなければ、それは器の中の嵐でしかなく、つぎの戦いへ転換するエネルギーとさえなる。『 ガス抜き 』の一つのツールでしかないということになる。
創価学会のマインド・コントロールは奥が深いなー、とただただ感心ばかりである。
◇ 民主主義国家で最も尊重されるべきものは「 主権者の意思」である。
議会制民主主義では、国会の議席と主権者の意思とが大きくずれる場合がある。国会における勢力だけでなく、主権者の意思を常に確認することが必要である。
自・公の連立与党は両院で過半数を有しているが、直接支持した主権者の比率が決して高くないことに留意する必要がある。
( 国政選挙の投票率は50%程度、与党全体での得票率は併せて約50%、主権者の約25%程度しか連立与党に投票していない。)
国会の議席を多数確保しているからといって、この数の力を背景に、独断でものごとを実行してよいということにはならない。
安倍首相も自民党も公明党も、完全に舞い上がっている。舞い上がっている政治家は危険である。
日本国憲法は、その基軸を『 個の尊厳 』・『 国民主権 』に置き、そしてそれを、国民一人ひとりにとって「 最も欠かせない基本的な権利 」「 平和のうちに生存する権利 」として保障している。
私たちは、憲法に学び、そして日本の歴史、世界の歴史に学ばなければならない。
☆ 日本国民は、・・・、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、・・・、われらは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 ( 憲法前文)
☆ 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。( 憲法第9条)
☆ この憲法が国民に保障する自由及び権利は、「 国民の不断の努力」によって、これを保持しなければならない。( 憲法第12条)
☆ この憲法が保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の成果で、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。( 憲法第97条)
☆ 憲法は、政治権力が暴走することを防ぐための「 国の最高法規 」である。( 憲法第98条)
☆ 国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。( 憲法第99条)
≪ 安倍首相は「 積極的平和主義」を唱えている。「 専守防衛」は安倍首相によると「 消極的平和主義ということになるのだろう。安倍首相とそのとりまき仲間は「 専守防衛 」をやめたいのだろう。
国と国との戦争、武力攻撃は、それなりの原因と理由があって起こるものだ。直接武力攻撃を加えられていない国に対して、他の国が武力行使をしてもロクなことがない。
「 専守防衛」は臆病なものでも卑怯なものでもない。他の国が出しゃばってやってもロクなことにはならない。歴史が証明している。
ひとたび国家と国家が武力行使という段階になれば、自衛隊、軍隊だけの問題ではすまされない。国民の圧倒的な支持がないところで、断固として闘う「 国家の防衛 」などあろうはずがないことは火を見るより明らかだ。 ≫
≪ 平成26年7月1日は多くの日本国民にとって忘れられない日となるだろう。
第1幕は終わった。第2幕は安倍総理とその仲間を変更する闘いだ。
憲法そのものが変わったわけではない。憲法第9条が集団的自衛権を禁止しているのはどこから見ても明らかだ。
悲観してはならない。私たちは新しい闘いを始めなければならない。大切なのは、理想に向って歩み続けることだ。そこから希望が生まれてくるのだ。 ≫
( 白川勝彦氏ブログ「 永田町徒然草 」より )
★ 集団的自衛権の行使容認のための「 閣議決定 」は「 内閣の職務権限を越えており」、憲法違反である。
主権の存する国民によって、又、憲法の番人である「裁判所」によって、裁かれねばならない。
今回、閣議決定がすんで少し時が経過しているが、前回のSさん以上に強い感銘を受けた「Aさん」の記事( ブログ「絶対平和の師子」)に出会ったので掲載してみたい。
≪ 『 集団的自衛権行使容認は、自公政権のクーデター』( 7月3日)
自民党と公明党によって、集団的自衛権の
行使を容認する事が閣議決定された。
従来の内閣法制局の見解を覆すもので、実質的な改憲である。 (中略)
公明党は、早々に連立離脱を封印し、是々非々の道を閉ざした。限定容認というそもそも、その発想そのものが、「 譲ってはならない案件」で条件闘争をした愚かな政党と糾弾する。
憲法は権力を縛る法律である。国家を拘束する法律である。それを、時の政府が解釈で改憲するというのは、クーデターと同じである。テロや暴動が起きても、決しておかしくない状況なのだ。 ( 中略)
イラク戦争を支持した公明党と、それを黙認した創価学会が、今度は、憲法を解釈で変えるのだ。地方議会や支持者、学会員から猛烈な反対意見が殺到した。公明党の中堅幹部からも異論が続出したという。
それなのに、なぜ、改憲したのか?
公明党執行部の判断である。支持者や国民への約束よりも、自民党との関係を優先させたのである。当然、創価学会本部に無断でこのような判断ができる訳がない。
創価学会上層部と自民党、公明党執行部との間で合意があったのだ。創価学会は平和主義の団体ではなく、企業組織としての 「 公明党の圧力団体」 であり、名聞名利の腐敗した官僚組織である。
国民の大多数は、政権離脱を歓迎したはずであり、創価学会員もその貴重な友人たちも、平和の党を最後まで信じていたのである。イラク戦争の時は、上手く誤魔化せた学会本部も、今回は、国民の目は誤魔化せない。
「 人間革命の理念」 が飾りだけの誤魔化しなのは、明明白白だが、国民の総意を無視して、改憲を決めるなど言語道断である。
先師牧口先生、二代戸田先生への明白な違背であり、「 絶対平和の師子 」は、断じて、このような身延の亡霊の如き腐敗を看過しない。
池田先生の影響がなくなった本部が、既に、「 草創の精神」を失った、単なる「 宗教ビジネス」に堕しているのは、絶対に許せない。大聖人仏法を冒涜するものである。これは、与党合意に名を借りたクーデターであり、民主主義の破壊そのもである。 =以上転載
◆ 投稿者Aさんは、今回の公明党の姿勢に関連して、イラク戦争にも遡って指摘し、< イラク戦争を支持した公明党、黙認した創価学会 >と、核心的な問題から目をそらしていない。
さらに、今回の 「解釈改憲」については、
< 支持者や国民への約束より、自民党との関係を優先させ >、< 創価学会上層部と自民党、公明党との間で合意があった >と指摘し、< 創価学会は既に「 平和主義の団体」ではなく、「 公明党の圧力団体」へ腐敗し、< 人間革命の理念が誤魔化しは明明白白、国民の総意を無視し改憲など言語道断である >と厳しく糾弾している。
「 解釈改憲問題」に関わる、Aさんの創価学会・公明党への切り込みは要所・急所を突いており、外部の者にさえ強く共感できるものである。
年齢は不詳だが、かつて組織のかなりの役職を経験されたことのあるお方だろう。
Aさんの創価学会を追及する目は鋭く、その分析も妥当なものであるのだが、< 創価学会の頽廃は、「 草創の精神」 の喪失にある >とする考えで止まってしまっているのは、なぜだろうか?
※ 私の拙い感想は次回に
桃太郎氏の見立てもなかなか良い点ついてます。
「創価学会の頽廃は草々の精神の喪失にある」
この視点で止まっているのが、この人の限界なんですよね。まあ知っている人には知られている人です。
創価学会のことをAさんが、< 単なる 「宗教ビジネス」に堕しているのは、大聖人の仏法を冒涜するものであり、絶対許せない >としているのは、実に尤もな批判である。
しかし、それこそが、池田名誉会長が50年以上に及んで指導・強制・洗脳してきた路線、「 池田教」確立の路線であって、堕落した宗教に堕したその責任は「 池田大作氏」本人へ向けるべきものであるはずである。
Sさんの「 公明党批判」に足踏みの状態に比べ、Aさんは、創価幹部の腐敗を追及するなど、その意味は大きいが、
< 池田先生の影響が亡くなったので、「 草創の精神」を失ってきた >という飛躍した捉え方では、創価学会の衰退問題についても、一般世間が問題とする「 創価問題」についても、何一つ語ることはできないだろう。
思想・信条を巧みにコントロールし、「宗教的縛り」をかけ、一票でも多くの票集めで「功徳」をいただけると、選挙運動を信仰とさせている「根本的な誤り」、創価・公明の「 聖教一致体質」 に関して一言も論じることがないようでは、どのように創価学会を叩こうとも、一般世間には何の説得力もないと知るべきである。
創価幹部批判までもやれるAさんであれば、憲法を溶解させる、そのエネルギーを供給しているのは、自民党への創価票であり、政権の腐敗の極み、反民主主義化は、正にこの問題にあるということを知っていてもよさそうに思えるのだが・・・・。
< 身延の亡霊が如き腐敗を看過しない >とか、< 与党合意に名を借りたクーデターで民主主義の破壊である >などと憤ってみても、創価学会の教義が頽廃し、崩壊してしまっているという問題から目を反らして、公明党を叩き、創価学会執行部の一部腐敗を追及してみても、何らの組織の改革も、新たな展望も見出せたりはしないだろう。
これまで、公明党への失望だけでなく、 池田教化した創価学会の信仰に失望し、どれほど多くの学会員が組織から離れていったことか。
創価学会に帰依した人は、相当数の人々が「 真の日蓮仏法」 を求めて帰依したのであり、「 池田教」 を信仰するために学会に加入したのではないという主張は、幹部狂信者には、ある限定的範囲でないと容認できないのであろう。
マイ聖教、F票集め、異常な金集め、さらに、罵詈雑言の凶暴化した「 宗門攻撃」など、どこをとってもまともな宗教団体ではない創価学会が、ただひたすら数を目標としたタチの悪い「 折伏」とは、真に滑稽そのものであり、これをもって「 広宣流布」とすれば、日蓮さんはもとより、牧口氏でさえ怒り心頭に発するに違いない。
彼らの多くは、決して「 身延山」へ走ったり、創価のふるさと「 日蓮正宗」に戻ったりはしていないのである。創価学会に失望した人たちは、日々慟哭の想いで、「 真の信仰とは何か」を求め、日蓮の教えを自ら捉え直し、何ものにも依存しない、一人立つ「 真の信仰」をさ迷いながら求め歩いているのである。
こうした「 欺瞞性」に我慢のならない人が、ただ家族へその「切実な想い」を語ることさえ容易でないとすれば、この信仰は一体何なのか?
世に言う、「カルト宗教」と揶揄されても至極当然なことではないのか。
『 白バラ事件』とは、創価上層幹部や池田先生へ対する批判は一切許さないという、全体主義、専制主義の人権抑圧事件の問題である。
Aさんが、創価・公明との関係に対して、今回以上に一歩二歩と踏み込めば、組織内の役職によっては、「 高倉氏」と同様に、「 信仰指導」と称して、人権抑圧が起きるかも知れないのだろうか・・・?
それにしても、創価学会の批判拒否体質は、何に依って起きてくるのであろうか。日蓮思想そのものにあるのか、「 創価仏法」にあるのか、「池田仏法 」にあるのか。
それは、日蓮主義にも、法華主義にも一部その 「源泉」を尋ねなければならないだろうが、創価学会の「 批判拒否体質」の根本は、「 創価学会」による日蓮仏法の悪しき利用によるもの、「独善的」「排他的」な体質より来るものであるだろう。
『 池田教 』は、更にそれに加えて、「 全体主義・専制主義」をその組織原理とし、創価学会の「カルト化」をより一層促進してきたと言えそうである。
しかし、Aさんに対する抑圧事件は心配するには及ばないのである。Aさんが大きく踏み込んで創価トップ批判をし、信心を疑うことはまず考えられないことであるからである。
信仰の核となる「日蓮原理主義」を疑えない限りは、有り得ない話なのである。
Aさんに見る、 創価学会トップへの『 批判不能症候群 』は、正にこうした「 日蓮本仏論から池田本仏論へ 」のすり替えが導き出したものだからだ。
Aさんは、Sさんと同ように、又はそれ以上に高いレベルでの「 思考停止状態 」であり、本人がどのように認識していようとも、「 池田教」と創価組織を下支えする存在=「 高い質のガス抜き」としての存在を立派に果たしているのである。
☆ もはや創価学会は、私には、仏教からは遠く離れている、独善的でタチの悪い「 一神教」のようにさえ思えるのである。
それにしても、宗教団体が、突然そっくり政治団体に姿を豹変させることが許されるという国は、世界の中で日本の他にあるのだろうか。
時の多数議席を占める政党が、それを利用し政権の中に溶解させるという、不思議な国の不思議な現象である。
日本国が溶解する日は近い。恐ろしいことだ。
大学と各種の専門学校で、法律学、哲学、社会学、家族社会学、家族福祉論、初等社会、公民授業研究、論理的思考などの科目を担当しています。
KJ法、マインド・マップ、ロールプレイングなどの技法を取り入れ、映画なども教材として活用しながら、学生と教員が相互に学び合うという参画型の授業を実践しています。現在の研究テーマの中心は、法教育です。
私は命ある限り、人間を不幸にする悪と闘い抜く覚悟です。111歳までは、仕事をしようと決意しています。