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「永遠の命と思って夢を持ち、今日限りの命と思って生きるんだ。」
 あなたは裁判員になりたいですか-法教育講座シリーズ その1」(2011年3月16日付け)に加筆訂正をした原稿を掲載します。
 
この原稿は、5月に出版される『社会への扉を拓く―あなたとつくる生活科・社会科・総合の物語―』に所収される予定です。この本は、小・中・高の教員と教員志望の学生を対象にしたものです。
 
締め切りを延ばしに延ばして頂き、その内容は3分の1に削減しました。最後まで、ご高覧頂ければ幸いです。
 
************************
 
公民分野の中核となる法教育
 
はじめに
 
わが国では,教員免許を取得する者は日本国憲法の単位を取得することが義務付けられている。したがって,初等中等教育の現場で,子どもたちの教育に携わっている教員は全員,日本国憲法についての知識を有しているはずである。
 
しかし,初等中等教育における日本国憲法の教育は,十分な成果を上げているであろうか。
 
司法試験の予備校のカリスマ的教師として有名な伊藤真氏は,「私たちの塾に通う学生の多くは,憲法と法律の違いを知らない。」と述べている(1)。そして,「小学校から憲法を学んでいながら,憲法で最も大切なことを知らない」ばかりか,「権力についての恐ろしさを知らない」し,「人権や平和について,まったく抽象的な理解しかない」と指摘されている(2)。
 
なぜ,伊藤氏が指摘されるような事態が生じているのであろうか。その原因は,少なくとも二つあるのではないかと思われる。一つは,初等中等教育の現場で,日本国憲法を教えてきた教員に責任があると思われる。一つは,そのような教員を養成してきた大学の教員に責任があると思われる。
 
初等中等教育段階の子どもたちは,担当する教師によって,その科目の学習に対する興味が左右されることが多いように思われる。とするならば,法教育を担当する教師の責任は重大であることは言うまでもない。
 
これから法教育を担当する教員は,憲法教育の失敗を繰り返してはならない。そのためには,担当教員が,法教育の意義を理解して置くことが必要である。本稿では,この点に焦点を絞って述べることにしたい。
 
法教育の定義をめぐる見解
 
法教育という用語から,どんな事柄が思い浮かぶだろうか。法律は苦手だ,難しそうだと感じるかもしれない。大学の法学部や法律に関連する専門学校で,法律に関する事柄を学んだ者は,法学教育と法教育には,どんな違いがあるのだろうかと考えるかもしれない。また,憲法教育と法教育との関係を,どのように捉えるべきかとの疑問を持つかもしれない。
 
さて,法教育に関するわが国の代表的な研究者の一人である江口勇治筑波大学教授は「法教育という概念は,アメリカにおいて1960年代後半にはじまるLaw-related educationの翻訳語である。」と述べている(3)。
 
アメリカでは「ロースクールでの法律家養成教育である法学教育(Legal Education)と区別される形で,1930年代から,市民の法や法制度に対する理解や法過程への参加を促す学校教育としての法教育が実践されるようになり」(4),1978年に制定された法教育法では,Law-related educationとは「法律専門家でない人々を対象に法律,法(形成)過程,法制度,これらを基礎づける基本原則と価値に関連する知識と技術を身につけさせる教育」(5)と定義された。
 
平成15年7月29日に,わが国の法務省が発足させた法教育研究会は我が国における法教育の普及・発展を目指して-新たな時代の自由かつ公正な社会の担い手をはぐくむために-」との表題を附した報告書を公表した。その後、平成17年5月に、この報告書を踏まえつつ、法教育を推進することを目的とした法教育推進協議会を発足させた。
 
この法教育推進協議会では「法教育とは,法律専門家でない一般の人々が,法や司法制度,これらの基礎になっている価値を理解し,法的なものの考え方を身に付けるための教育をいう。」と定義した(6)。この定義は,アメリカの法教育の定義に基づいたものであると思われる。
 
近年,井門正美秋田大学教授が,アメリカの法教育に立脚するものとは異なる定義を提案された。井門教授は,法教育を「学習者の法的実践力を育成する教育である」と定義し,法的実践力とは「法に関する知識・理解とその運用能力,ならびに,それらを批判し,是正・創造する能力である。」との見解を発表されたのである(7)。
 
法教育の意義を考える
 
 筆者は,法教育推進協議会の定義は適切なものではないと考える。そして,井門教授の見解の方が,以下の三つの理由から妥当ではないかと考える。
 
 一つは,「法教育を一般市民の教育と専門家養成の教育に最初から分けてしまうのは市民の司法参加時代に逆行するように思われる。」(8)との井門教授の指摘は正しいと考えるからである。
 
一つは,教員養成学部で「学生自身が民主主義社会の担い手であることを自覚することと,子どもの人権を尊重できる教師になろうと決意できるようになることを教育目標」(9)とし,教員には「子どもたちを司法の場においても,単に便益を得る客体としてではなく,自らの力で主体として活動する市民へと育てる」(10)使命があり,そのためには「日常生活に必要な法律に関する知識を身につけるとともに,法的なものの考え方,すなわち,リーガル・マインドを身につけることができるような授業を実施」(11)できる教員を育成すべく努力してきた筆者の教育実践と合致していると思われるからである。
 
 一つは,法を知ることの重要性を明らかにした沢登佳人教授の「法はその時代において最も高次包括的な統一的社会(現代では国家社会)の根本的な構成原理および具体的な構成技術の総体である。人間は,そのような社会の中でそのような原理・技術に服従しまたはそれと闘いながら,人生の大半を送る。国民に対して注がれる法の眼差は,人生の喜怒哀歓を見つめる眼差しである。ゆえに法を知ることは人生を知ることであり,人生を知ることは考える葦に外ならぬ人間の生存としての人生の目的そのものである。」(12)との言葉に即していると思われるからである。
 
法教育の可能性
 
さて,法教育を「法的実践力を育成する教育」と捉えるならば,これまでの憲法教育は,法教育の中に包含されるのではないかと思われる。その結果,新しい憲法教育を展開できるようになると思われる。
 
 そうすれば,現在,わが国で進行中の教育に対する国家統制,すなわち,「グローバル・エコノミーのもとにおける大競争に日本が勝つことのできる人材養成という目的を前面に掲げ,『君が代』と『日の丸』の強制処分問題,国家の設定したスタンダードに基づく評価(学力テストの実施),学校をめぐる競争的環境の形成(学テ結果の公表と学校選択),学校組織の階層化(副校長,主幹教諭,指導教諭などの新職の法制化),国際学力比較の詳細な紹介,教育の仕方による教師への攻撃,教科書検定・採択問題」(13)に対抗できる賢明な国民を育成することが可能になると思われる。
 
なぜならば,理想的な法教育が実施されるならば,まず,これまでは難しいと敬遠してきた法的な問題に関する内容を理解しようとの態度が形成されるからである。そして,政府やマスメディアの見解を鵜呑みにするのではなく,様々な角度から物事を多面的に検討した上で,適格な判断を下そうと考えるようになるはずである。さらに,他者の主張を傾聴しつつも,自らの判断を主張できるようになるからである。
 
終わりに
 
法教育の授業では,裁判員制度がその中核となることは言うまでもない。本書に掲載されている附属坂出小学校と附属高松中学校の実践は,子どもたちが,裁判員制度の内容を理解するという点に置いては,優れた成果を収めているように思われる。
 
しかしながら,裁判員制度は,憲法違反のデパートであると評されるほど様々な問題点があると指摘されている(14)。しかも,その真の狙いは「裁判に国民を参加させ,強権的裁判の実態を国民に体験させることによって,国家権力の強大さ,恐ろしさを知らしめ,国民をして国家権力に従順な国民にさせようとしている」(15)のであり,「この制度は,国民を,裁判して処罰する側,権力の側に無理矢理立たせ,それに反抗するものは不適格者としてはじいていくという仕組み」(16)であると指摘されているのである。
 
したがって,もし,裁判員制度の問題点に触れない授業だけを行うならば,教員が基本的人権の侵害を援助することにもなりかねない。今後の課題は,子どもたちの発達段階を念頭に置きながら,裁判員制度の問題点をどのような形で織り込むかである。
 
この点に関しては,裁判員法第15条第15号で「学校教育法に定める大学の学部,専攻科又は大学院の法律学の教授又は准教授」が裁判員に就職することが禁止されていることが,授業の有力な教材となるのではないかと思われる。この規定を取り上げた授業を実施するならば,子どもたちは,裁判員制度の本質を比較的容易に見抜くことができるのではないだろうか。
 
なぜならば,この規定は,法の下の平等に反し「合理的な根拠は見出しい得ない」ばかりか,「もしも,刑事訴訟法の大家であるような大学教授が,刑に服することを覚悟の上で,実際に裁判員として参加した体験に基づいて,裁判員制度の欺瞞性を明らかにするならば,その批判は,体験に裏打ちされたものだけに,大きな反響を呼ぶことになる」(17)ので,このような事態を防止する意図が含まれていると思われるからである。
 
(1)     伊藤真「憲法を実践する法律家養成のなかで-中高生に対する憲法教育の大切さ」全国法教育ネットワーク編『法教育の可能性―学校教育における理論と実践-』(現代人文社,2001年)133頁。
(2)     同上134頁。
(3)     日本社会科教育学会編『社会科教育学辞典』(ぎょうせい,2000年)190頁。
(4)     関東弁護士連合会編『法教育―21世紀を生きる子どもたちのために-』(現代人文社,2002年)11頁
(5)     同上書11頁。
(6)     法教育推進協議会 『私法分野教育の充実と法教育の更なる発展に向けて』(http://www.moj.go.jp/content/000004354.pdf,2009年)1頁。
(7)     井門正美『役割体験学習論に基づく法教育-裁判員裁判を体感する授業』(現代人文社,2011年)24頁。
(8)     同上書24頁。
(9)     髙倉良一「教員養成学部における法教育担当者養成の試み」全国法教育ネットワーク編『法教育の可能性-学校教育における理論と実践-』(現代人文社,2001年)144頁。
(10)     渡邊弘「中等教育以下における法教育の充実を-『市民の司法』の実現へ向けて」月刊司法改革7号(2000年)15頁。
(11)     髙倉・前掲145頁。
(12)     沢登佳人『法の基本構造』(風媒社,1969年)4頁。
(13)     生田暉雄「裁判員制度,隠された本当の狙い」伊佐千尋・生田暉雄編著『裁判員拒否のすすめ-あなたが「冤罪」に加担しないために』(WAVE出版,2009年)139頁。
(14)     裁判員制度の問題点を指摘する文献としては,伊佐千尋『裁判員制度は刑事裁判を変えるか-陪審制度を求める理由』(現代人文社,2006年),高山俊吉『裁判員制度はいらない』(講談社,2006年),矢野輝雄『あきれる裁判と裁判員制度-[裁判官は,なぜ信用できないのか?]』(緑風出版,2006年),生田暉雄『裁判が日本を変える』(日本評論社,2007年),石松竹雄・土屋公献・伊佐千尋『えん罪を生む裁判員制度-陪審裁判の復活に向けて』(現代人文社,2007年),小田中聰樹『裁判員制度を批判する』(花伝社,2008年),小浜逸郎『「死刑」か「無期」かをあなたが決める-「裁判員制度」を拒否せよ!』(大和書房,2009年),西野喜一『裁判員制度批判』(西神田編集室,2008年)を参照されたい。
(15)     生田・前掲「裁判員制度,隠された本当の狙い」151頁。
(16)     小田中・前掲書21頁。
(17)     髙倉良一「裁判員就職禁止事由に関する一考察-なぜ,法律学の大学教授と准教授は裁判員になることができないのか?」香川大学生涯学習教育研究センター研究報告第14号101頁(2009年)。

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» 拝見させて戴きました
法律・・・
これで人々の生活が縛られています。
これで人々の生活が守らています。
これで全てをジャッジしています。

しかしながら、庶民の生活観からは「蚊帳の外」的存在です。
これはいけないと思います。
大衆は法律をもっと「知る」必要があると思います。

そうでなければ「法の知識人」に、自分たちの都合のいいようにされてしまう気がします。
誠実に生きてる庶民が利用されるだけの位置づけになるような。。
そんな気がいたします。

生活に一番密接した事柄であるのに、一番縁遠い・・・
それが今の法律のように思います。

そういう意味では、法律の学びは義務教育でも大いに取り入れるべきではないでしょうか?

もちろん表現は安易な言葉でいいのですが、客観的な視線を養い・やみくもに言われるままに信じ従うのじゃなく、ちゃんとルールに照らして自分の意見を持ち、知らないまま隷属などないよう自分を養う。
それは大切だと思います。

裁判員制度・・・・難しいですよね。。
賛否両論あると思います。

でも、素人的意見や庶民感覚の意見は重要です。
狭い法曹界の枠以外の・ある意味陳腐化された視線より、斬新な見解もあるはずです。

この時代、そしてこれからの時代
「枠」は必要ありません。
全てにおいて言えると思います。

「枠」の中だから、その中にある水だけだから
他の水との交流や入れ替わりがないから、よどみ・・・
そして、やがて汚水となっていくのだと思います。

自由の風と自由のミネラル水が行きかう。
風も水も留まらず、常に流れてる。
それは透明感のある風であり、透明感のある清水です。
今の時代、それが大切だと思います。

「枠」の中
これは知られたくない事柄や都合の悪い事実を隠し、世間や社会を笑顔の仮面で騙すには都合のいい「枠」です。
法律も・あらゆる組織もそうです。

そういう「枠」のズルさや・汚さ・・・
「枠」を利用しての狡猾な振る舞い・・・
それらを見抜く「視線」
それはやはり「法律」に立脚した知識です。

清き法のプロ
清き法の教鞭
とても大切な・とても尊い方々だと痛感します。
これからの大衆のために・必要不可欠な方々だと痛感します。


う~ん・・それにしても、今回の綴りは見慣れない言葉が多くて、私ごとき素人には難しい言葉に感じました^^;。

でも、何となく・・・伝わるモノもちゃんとあって。。。
私なりに・気持ちのままにコメントさせて戴きました。

的外れのコメントになってる気もいたします^^;。
素人なので・・・多謝でございます。(苦笑)
kan 2011/04/21(Thu)23:34:29 編集
» 感服致しました
kan様

 コメント、ありがとうございました。

 以下の記述には、感服致しました。

********************
 「枠」の中だから、その中にある水だけだから
他の水との交流や入れ替わりがないから、よどみ・・・
そして、やがて汚水となっていくのだと思います。

自由の風と自由のミネラル水が行きかう。
風も水も留まらず、常に流れてる。
それは透明感のある風であり、透明感のある清水です。
今の時代、それが大切だと思います。

「枠」の中
これは知られたくない事柄や都合の悪い事実を隠し、世間や社会を笑顔の仮面で騙すには都合のいい「枠」です。
法律も・あらゆる組織もそうです。

そういう「枠」のズルさや・汚さ・・・
「枠」を利用しての狡猾な振る舞い・・・
それらを見抜く「視線」
それはやはり「法律」に立脚した知識です。

*******************

 これだけの表現力と感性を、どのようにして培われたのでしょうか。大変、勉強になりました。ありがとうございました。

 私も、貴兄のような文章力を身に付けるべく精進しなければと存じます。今後とも、何卒よろしくお願い申し上げます、

 



 
希望 2011/04/22(Fri)00:08:22 編集
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本名:髙倉良一(たかくらりょういち)
性別:
男性
職業:
大学教員
趣味:
思索と散歩と映画鑑賞
自己紹介:
HN:希望
大学と各種の専門学校で、法律学、哲学、社会学、家族社会学、家族福祉論、初等社会、公民授業研究、論理的思考などの科目を担当しています。
KJ法、マインド・マップ、ロールプレイングなどの技法を取り入れ、映画なども教材として活用しながら、学生と教員が相互に学び合うという参画型の授業を実践しています。現在の研究テーマの中心は、法教育です。
私は命ある限り、人間を不幸にする悪と闘い抜く覚悟です。111歳までは、仕事をしようと決意しています。
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