記
ーーそうです。消火用の水が確保できず、積極消火できなかった。地中で水道管が断裂し、停電のために送水ポンプが作動しなかった。加えて消火水栓と消防ポンプの規格が合わなかったために、繋げられなかったことも原因の一つにはなっています。水上艇や他都市からの消防ポンプ車が中継を重ね、海水を汲み上げて鎮火に成功できると思った。ところが消防ホースが交通量の多い国道を横切るため、車に踏まれて破損する。度々交換するから、消火活動もその都度中断せざるをえない。だから鎮火に時間がかかった。燃えるに任せたわけじゃありませんが、長田区の被害は他区より突出し、復興が一番最後になったわけです。
神戸市の一番小さい区が、一番被害が酷かった。創価学会も同じです。午前5時46分の地震発生時は、大半の人が在宅です。学会もここで4支部が壊滅したから、学会員の死者は一千人ではすまないでしょう。思い当たることといえば、1月2、3日に創価学会神戸文化会館で、会員から回収した日蓮正宗の御本尊多数を焼却処分したことくらいですかね。ずいぶん罰当たりなことをしたもんです。ある時うち(本門法華堂)の御住職にこんな質問をしたことがあります。
ーー創価学会の御本尊なんて偽物だから、破って捨ててもいいんでしょう。
「何をバカなことを考えているんだ。仮にも日寛上人の御本尊だぞ。あんたにどんなことがあっても、責任もてん」
ーーつくづく父親の御本尊を日蓮正宗にお返ししてよかったと思いました。
「御本尊の処理はどうしているんですか」
ーー御住職は言葉を濁されましたが、本堂の御本尊の前に据えて、謝罪の礼拝をするんだと思います。そんな儀式を数回でも行い、そしてお焚き上げになるでしょう。もしくは知り合いの大寺院の宝物庫に保管してもらうんでしょうね。いずれにしても、最終的にはお焚き上げになると思います。
人形供養で知られる中位クラスの神社に、ライターが取材に行った。ところが今日は受け付けられないから、帰ってくれと言われたそうです。それなら何かあるだろうと思い、こっそり本殿裏の広場に回り込み、背後の森に潜んで様子を探っていた。しばらく経って本殿裏から神官達が人形を数体抱え、井桁に組んだ段の中に入れている。そして点火した。神社のお焚き上げです。彼はその一部始終をカメラに収めていたところ、見つかってしまった。神官達は、それなら事情を話すしかないかと打ち明けてくれた。
「すぐにはお焚き上げしないんですか」
ーーできないんです。寺や神社に持ち込まれて供養を依頼されたものは、信徒や所有者の念が籠もっている。人形や絵馬でもそれは同じです。中には強烈な怨念の籠められた特級の呪物もある。例えばその人の肉体の一部である毛髪、爪、血液、あるいは他人を傷つけたり殺害したりして得た相手の肉体の一部などを用いて呪物を造る。もうそうなったら呪物どころか、あなた、〃呪仏〃ですよ。〃祟り神〃ですよ。三界の悪念を全て集めた〃魔〃そのものになっている。さんざん使用して怨念の相手は全員死んだが、今度は身近な人まで祟り殺すようになった。このままそばに置いておくと、家族や自分の命まで危なくなる。だからみんな神社やお寺に持ってくるんですよ。ある神社はこれを祓ってくれと持ち込まれたが、一目見てあまりの邪念の強烈さに気圧されてしまい、とても私どもでは祓えませんと言って受取らなかった。そんな特級呪物のお祓いには、神官や住職の命を削る作業が必要になる。そして因縁が深ければ深いほど邪気が強い。悪の気配を全部抜くには、五年十年、あるいはもっと時間を要することもあります。自分のところでは手に負えないと判断した場合、他の寺社から応援を依頼して行う場合があります。
「ほう、それで人畜無害になるわけだ」
ーーそうとも限りませんよ。お寺の場合には本山に、神社なら総本社に預ける場合だってあります。また持ち込まれた当の神社の判断で、それこそ人跡稀な山奥に小さな神社を造り、簡単に開けられぬよう工夫を凝らし、封じ込めてしまうんです。あるいは洞穴を利用することもあるでしょう。その前に注連縄が張ってあれば、もう間違いなく封印されてますね。たまさかに神官らが訪れ、封印を確認することもあるようです。まあ山奥は人外魔境ですから、いくら登山が好きで偶然発見しても、近寄らぬ方が身のためです。
つづく
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記
さて、日蓮聖人のいう即身成仏を金ピカの仏になることではなく、現世一代で全ての悪業を断絶してしまうということなら、転重軽受を即身成仏だと考えてもいいと思います。もし金ピカの仏になりたいと思ったら、何度生まれ変わっても、常にその世代で法華経を多くの人に説き、救済に励む必要があります。お釈迦さんと同じですね。
さて、日蓮聖人のいう即身成仏を金ピカの仏になることではなく、現世一代で全ての悪業を断絶してしまうということなら、転重軽受を即身成仏だと考えてもいいと思います。もし金ピカの仏になりたいと思ったら、何度生まれ変わっても、常にその世代で法華経を多くの人に説き、救済に励む必要があります。お釈迦さんと同じですね。
一度で全てに応えられません。それに恰好の例が明らかになれば、先生も認識を新たにするでしょう。2025年参院選が終わって結果が出るまで、沈黙していたわけです。
さて、日蓮聖人の曼荼羅は法曼荼羅です。『本尊とは法華経の行者の一身の当体なり』と言われてますから、正しく信仰すればするほど言動が正しく理想的になり、周囲の人から慕われるようになる。お釈迦さんと同じですね。もちろん我々は在家ですから、僧侶のように多くの人と知り合い、法門や自己の知識や教養を伝授して救うことはできない。限られた人に対してのみ可能です。しかしそれに励んだ人は〃本有の尊形〃となり、現世でその内証が即身成仏するのです。その場合は、法本尊の『有供養者。福過十号』になります。
「池田大作でも慕う人間が大勢いましたが」
ーー以前『朝まで生テレビ』という番組がありまして、創価学会の広報部長だった西口副会長が出演してました。その中でこう言ったんです。
創価学会を辞めた人は、一千万人いる。
週刊誌でそれを知りまして、改めて驚きました。
1977年(昭和52年)の『正信会』 ……三百万人
1988年(昭和63年)の大橋敏雄さんの決起 ……四百万人
199〇年(平成2年)からの宗門との破門による抗争 ……三百万人
それぞれの末尾の数字は、推定の脱会者数です。また199〇年2月は衆院選がありまして、前回の公明党の議席数は56議席でしたが、それが45議席に激減しているのです。
私も末端で活動に参加しましたが、改めて驚いたものです。
しかし特筆すべきは、ほぼ一周遅れで国難が殺到するようになったことです。1992年にバブル経済崩壊があり、翌1993年7月に北海道南西沖地震のため、奥尻島南部が壊滅しています。このときは大陸から、島の南から、北海道からの反射によって殺到した3方面からの津波により、島の南部の青苗地区が大打撃を受けたわけですが、出動した自衛隊員に顕正会員がおり、顕正新聞に手記を寄せていました。
それによると、青苗地区は所帯数約五百戸のうち半数が創価学会でした。全島で死者・行方不明者が198人ですが、青苗地区では109人に上っています。
「そんなに被害が悪化した物理的原因はなんですか」
ーー火災が起きたんですよ。彼の手記では、沖合に流された漁船が発火し、それが津波に乗って上陸し、他宗の寺の本堂に乗り上げた。折しも四方から風が吹き寄せ、八方に火が飛んだ。漁業で飯を食っている所だから、各所に漁業用燃料油が大量に保管してあった。それに燃え移り、一気に火災が悪化した。地図で見ると青苗地区には空港や様々な施設などがあり、島でもっとも栄えていた。そして半数が学会員だったとのことです。
さらに1995年1月17日には阪神淡路大震災がありました。朝日新聞と西日本出版社の記事を参考すると、もっとも被害が激しかったのは、もっとも面積が小さい長田区です。下町で木造住宅が密集している。加えてここは神戸市の重要産業ケミカルシューズの中心地だった。ケミカルシューズはゴム製品だけに燃焼しやすく、火災が悪化した原因の一つにもなっています。一万平方メートル以上の火災が、隣接する須磨区と併せて14箇所もあった。火災がそれだけ大規模だったわけです。
「しかし理由はそれだけじゃないんでしょう」
つづく
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記
白米一俵御書 五九歳 一五四五頁
の道は世間の事法にて候。金光明経には「し深く世法を識れば、即ち是仏法なり」ととかれ、涅槃経には「一切世間の外道の経書は、皆是仏説にして外道の説に非ず」と仰せられて候を、妙楽大師法華経の第六の巻の「一切世間のは、皆実相とせず」の経文に引き合はせて心をあらわされて候には、彼々の二経は深心の経々なれども、彼の経々は未だ心浅くして法華経に及ばざれば、世間の法を仏法に依せてしらせて候。法華経は然らず。やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。
の経々の心は、心より万法を生ず。譬へば心は大地のごとし、草木は万法のごとしと申す。法華経は然らず。心すなわち大地、大地則草木なり。爾前の経々の心は、心のすむは月のごとし、心の清きは花のごとしと申す、法華経は然らず。月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり。此をもってしろしめせ。白米は白米にはあらず。すなわち命なり。
Ⅰ 日蓮聖人の曼荼羅は特級呪物か(2)
撰時抄
第七の巻に第五の五百歳闘諍堅固の時を説いて云はく、「悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等其の便りを得るなり」と。
大集経に云はく「我が法の中に於いて闘諍言訟せん」等云々。
法華経の第五(の巻)に云はく「悪世の中の比丘」。又云はく「或は阿蘭若に有り」等 云々。又云はく「悪鬼其の身に入る」等云々。
文の心は第五の五百歳の時、悪鬼の身に入れる大僧等国中に充満せん。その時に智人一 人出現せん。彼の悪鬼の入れる大僧等、時の王臣・万民等を語らひて、悪口罵詈・杖木 瓦礫、流罪死罪に行はん時、釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌の大菩薩等に仰せつけ、大 菩薩は梵・帝・日月・四天等に申しくだされ、其の時天変地夭盛んなるべし。
国主等其のいさめを用ひずば、隣国にをほせつけて彼々の国々の悪王悪比丘等をせめらるるならば、前代未聞の大闘諍一閻浮提に起こるべし。
「先回の会合では、聖人の曼荼羅が特級だということについて確たる返事がもらえませんでしたが」
ーー聖人の曼荼羅には、人を呪う呪禁が入っている呪物だという認識しかない人がいる。まあそんな人は呪物ではなく、呪仏だというでしょう。日蓮曼荼羅は法曼荼羅・法本尊であるという真実を理解していないと、浅はかな先入観のままで終わってしまうのです。そんな人に対する一面的な回答をしただけです。
ところで、親鸞には「南无阿弥陀仏」という名号本尊があるのをご存じですか。无は無の古字です。阿弥陀仏という仏名だけ書かれているから、単なる人本尊です。十字架上のイエス像と同じです。法が具わっていない。つまり名号本尊には、時間と空間を超える法力がないのです。だからいくら南无阿弥陀仏と称えても、阿弥陀仏の安養浄土(極楽浄土)に往生できないのです。阿弥陀仏の世界に往生できたというのは、あくまで法を体現したお釈迦さんーーというよりも釈迦如来ーーの保障があったからです。ここ人間の娑婆世界では、お釈迦さん以外の仏が法を説くことはありません。その資格があるのは、あくまで娑婆世界の教主である釈迦如来のみです。先回でも言いましたが、これは重要な問題ですから、一重立ち入って答えましょう。
親鸞の弟子唯円の回想録『歎異抄』に興味深い記述があります。第二条です。全文を挙げましょう。
おのおの十四箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たずねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべらん、また地獄におつる業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり。たとえ法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。その故は、自余の行もはげみて、仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。親鸞が申すむね、またもってむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。
親鸞は晩年に京で著述に専念していました。理由は先回でも言いましたが、布教するにしたがって善導や法然の教えだけでは、念仏を一般に浸透させる根拠に乏しいと気が付いたからです。そこで『教行信証』などの執筆に励んでいたところ、多数の信徒がはるばる東国から数多の国境を越え過ぎて来訪してきたわけです。相当な苦労があったと思われますが、どうしても晴らしたい疑問があったからに他なりません。詰まるところ、念仏以外に往生できる道を知っているか、またその法が説かれたものを知っているのではないかと、親鸞に問いただしたわけです。それについて親鸞の回答が始まります。
あなた方のその考えは大いなる誤りです。それなら京都奈良の大寺院にも優れた学問僧が多数居られるから、その人々にお会いして、浄土往生の肝要な法門をよくよく聴かれたらよろしいでしょう。
私親鸞は、ただ念仏して、弥陀仏に助けられて往生させていただくべきであると法然上人の仰せを受けて信ずるだけであって、他の理由などありません。念仏は本当に浄土に生まれる大本なのか、また地獄に堕ちる行になるのか、全く知るところではないのです。たとえ法然聖人に騙され、念仏して地獄に堕ちるようなことがあっても、後悔などありません。
なぜなら他の修行にも励んで仏になるこの身が、念仏を称えて地獄に堕ちたというなら、騙されたという後悔もあるでしょう。しかしどんな修行も全うできないこの身だからこそ、地獄はすみかにふさわしいのです。
阿弥陀仏の本願が真実なら、それを解き明かしてくださった釈尊の教えが空言のはずがありません。釈尊の教えが真実ならば、善導の解釈は嘘ではありません。善導の教えが真実ならば、法然上人の仰せはどうして嘘偽りになるのでしょうか。それならば親鸞の申し上げることは、戯言ですますことはできないと思いませんか。有り体に言えば、浅はかなこの身の信仰はこのようなものです。この上は念仏の信仰を崇め奉ろうとも、また捨てようとも、皆さん方一人一人のお考えにお任せします。
つづく
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記
「欧米では懲役200年、あるいは300年という判決が出ることもあります。どうしてなんでしょう。200年も犯人は生きられないのに」
ーーたとえば幼児が両親を殺され、財産も奪われて家に放火されたとしましょう。当人は助かっても、親戚をたらい回しにされ、施設も転々として大変な苦労を背負わされてしまう。進学就職もままならず、結婚も断念せざるを得ないかもしれない。犯人は子供に対しても罪を作ってしまうんです。しかし過去の日本は殺人事件に公訴時効がありましたから、それを利用して犯人はうまく逃げ切った。皆さんはどう思います。公訴時効で無罪放免になったから、罪は消えたと思いますか。
「そりゃあ消えるわけないでしょう。あっ、そうか。だから欧米には懲役250年とか300年の刑があるんだ」
ーー子供は進学だって断念しなければならないし、仕事も低賃金長時間労働を強制されてしまう。病気や怪我で働けなくなったら、そこで人生お終いです。犯人は両親どころか、子供の人生も奪ったことになる。二人だけでなく、三人も殺してしまったことになるでしょう。仮に子供が死ななくて、孫の代にやっと生活が安定して幸せになったら、過去の嫌なことは忘れていくでしょう。だからそれまで罪は続くんですよ。孫の代までたった三代かもしれませんが、罪の深さは懲役200年どころか、300年だって不足かもしれない。
だから縁続の因縁という仏の説いた法があるんですよ。仏は過去・現世・(未)来世の三世を達観したうえで法を説くから仏法ですが、人々の罪に対する認識が進んできたからこそ、懲役200年という罪刑を定めるようになってきた。世間法がようやく仏法の一端を垣間見たということでしょうか。縁続の因縁はその一つです。だから仏法と世間法が融合しつつあるわけですね。日蓮聖人の『白米一俵御書』には、その詳しい説明があります。日蓮系教団の人よりも、むしろ世間一般の人に読んでもらいたいのです。
「日本人にはなんでも水に流す悪いくせがあります。そんな人間が腰を据えて日蓮法華(日蓮聖人の法華宗)を学ぶんでしょうか」
ーー以前の日本では殺人事件に公訴時効がありましたが、欧米から非難され、2010年に廃止されました。もう苛性ソーダで手の指紋を消し、逃げ得ということはできません。顎の骨を削って人相を変えてもダメです。
仏教はたしかに因果応報を説きます。そして因果・因縁で問題になることは、生老病死にまつわる一大事が多いことです。その他の対人関係・仕事・家庭家族のこと・経済的困窮なども過去世に因を作ったことが多い。これが長引いて葛藤を抱え込むから、来世まで尾を引くようになるのです。しかし全ての出来事が因縁で決まるわけではありません。些細なことなら、過去世で消えてしまう。だから人生は機械的な運命論ではないのです。それを説いて現世一代で解決を図るのが、法華経の奥義です。
創価学会が政権を取って30年間も日本を支配してきた。その間バブルが弾け、非正規雇用で賃金が下がり、貧困家庭が増えてきた。学校給食しかまともな食事ができない子供が増加し、子供食堂で命をつないでいる小学生もいる。その一方で裏金を作り、国民の主食米を食い物にした米騒動を起こしーー支持者から米をもらうからーー米など買ったことがないとうそぶく悪徳政治屋がはびこった。そんな悪人を支援してきたのが、創価学会公明党です。しかしそれも一世代30年で終わろうとしているでしょう。だから法華経を正しく信仰すれば、現世一代で怨敵は滅びてしまうのです。お釈迦さんというよりもむしろ釈迦如来自身が、法華経で語っていますね。『。』という金言を、皆さんは目の辺りにしているでしょう。だから人生は楽しむべきなんですよ。そうそう、こんな言葉もありました。『衆生所遊楽』。多くの人々が遊び戯れるところである。
そうそう、これはアメリカの世間法ですが、アメリカ映画で白人男性と黒人女性のセ○クスシーンは見たことないでしょう。ただ白人女性と黒人男性のセ○クスシーンはあるんですよね。つまりアメリカ映画では、白人男性と黒人女性のセ○クスシーンはタブーです。「そんな映画を作ったら、どうなるんでしょうか」
ーー後ろから撃たれてもいいんなら、自分でメガホンを取ってください。それがアメリカの世間法です。そうそう、フランス映画やイタリア映画でそんなシーンがあるかどうか、確認してください。もしあったら、私も観てみたい。
つづく
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お釈迦さんはクシナガラで入滅する時、弟子達が嘆き悲しんでいるのを目の辺りにした。彼等はこう言っていたのです。
「今までは仏が師匠だった。しかし亡くなられたら、いったい誰を師匠としたらいいのか」
そこで仏はこう言った。
「生きている時は、私が師匠だった。しかし死んだら、遺した教えがお前達の師匠となるのである」
皆さんがよく知っている「」ですね。法によって、人によらざれと覚えているはずですが、いかに法が大切であるかがよく分かるはずです。だから日蓮聖人は曼荼羅に善悪の法を認めたのです。プーチンの気分次第で戦場に送られる人治国家の悲惨さがよく分かるでしょう。だから正しい法によって修める法治国家の必要性をよくかみしめてください。本来は仏法と王法・世間法は一体だと納得できるでしょう
「よく法を体現した人生という言葉を聞きますが、そにれはどんな生活をしたらいいんでしょうか」
ーー世間法の道理を極め尽くした言動をするなら、それが仏法の全体を体現した人生になるということです。あくまで自己の過失や悪をよく抑え、正しく逞しく全うすることが生まれてきた目的ですから。
「清くも美しくもありませんが」
ーーいや、正しく逞しく生きるのは、周囲からするとカッコよくて、輝いて見えるんですよ。
「もう金ピカですか」
ーーそうです、金ピカそのもの。ところで『清く正しく美しく』は宝塚歌劇団のうたい文句ですが、あそこはヘドロそのものですよ。これは1971年冬のことですが、あまり売れないB級の美人団員が、美人局をやった事件が大々的に報道されてました。彼女はさる若手経営者の誘いを受けて交際していたわけですが、暴力団員の愛人だったんです。経営者が何度もその男に脅されたから警察に行き、事件が明るみに出た。歌劇団は大変な騒ぎでした。夢を売り物、いや、食い物にしてるわけだから、非難が絶えないのは当然でしょう。隠蔽体質を身につけてしまっているから、今後もスキャンダルは続くんですよ。
それはさておき、人生には過去世の因縁もあるし、そうでないものもあります。また現世で殺人などの悪事を働くなら、たとえ逮捕されても被害者の恨み、憎しみは消えない。それが現世で氷解すれば、加害者は来世において、憎しみを何らかの形で受けることはない。報復を受けることもないでしょう。だから現世で悪い因縁・悪業を造ってはならないのです。
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大学と各種の専門学校で、法律学、哲学、社会学、家族社会学、家族福祉論、初等社会、公民授業研究、論理的思考などの科目を担当しています。
KJ法、マインド・マップ、ロールプレイングなどの技法を取り入れ、映画なども教材として活用しながら、学生と教員が相互に学び合うという参画型の授業を実践しています。現在の研究テーマの中心は、法教育です。
私は命ある限り、人間を不幸にする悪と闘い抜く覚悟です。111歳までは、仕事をしようと決意しています。