ぎっくり腰も治り、あるセミナーを受講するために上京中の新幹線の車内で、私は、シニフィエ様のブログを拝読しました。7月15日付けのシニフィエ様のブログ「対話を求めて」
https://signifie.wordpress.com/
には、「ありがとうございました」とのタイトルを付された記事が掲載されていました。この記事の中で、シニフィエ様は、ブログを「終了」すると宣言されていました。
シニフィエ様のブログ「対話を求めて―静かに創価学会を去るために―」は、先日、400万アクセスを達成されたばかりでしたので、私は心底驚きました。
早速、新幹線の車内から、シニフィエ様のブログにコメントを投稿致しました。しかしながら、コメント欄は閉鎖されているらしく、私のコメントは掲載されませんでした。
創価学会を詐欺団体だと喝破されたシニフィエ様は、毎回のブログ記事で鋭い問題提起をされて来られました。
シニフィエ様のブログにコメントを投稿される皆様も、まさに、多士済々でした。中でも、私は、モニカ様のコメントを拝読することを楽しみにしていました。
シニフィエ様が、これまでブログを主宰されて来られたことに対して、心より敬意を表します。シニフィエ様の実践は、素晴らしいの一語に尽きます。私には、真似することすら出来ません。凄いの一語に尽きます。
かつて、私もブログのコメント欄を一時閉鎖したことがあります。ブログのことで、私の訴訟代理人である生田暉雄先生から怒鳴り付けられたことがあります。
「髙倉さん、今、裁判が継続するかどうかの瀬戸際です。ブログのコメント欄への対応でエネルギーを消耗している暇などありません。」
こんな体験がありますので、シニフィエ様がブログを「終了」されるとの決断を下されたことに対して、シニフィエ様のお気持ちを尊重することが肝要であると存じます。
ぎっくり腰の体験から、私は、意識的に「休息」を取ることが大切だということを痛感させられました。創価学会池田カルト一派を生み出した日本社会の土壌そのものを「改革」する闘いは、文字通りの長期戦となります。持久戦を戦い抜くためには、心身共に元気でなければなりません。そのためには、「休息」は必要不可欠ではないかと存じます。
シニフィエ様にお願い致したいことがあります。しばらくの間、ゆっくりと「休息」を取られた上で、ブログ「対話を求めて」を「再開」して頂けないでしょうか。
鹿児島の方言に「テゲテゲ」という言葉があります。この表現は、「適当なところで」という意味です。
かつて、シニフィエ様のブログには、「替え歌」が掲載されたことがあったと存じます。コメントをお寄せになられる方々の中にも、ポムポム様だったのではないかと存じますが、替え歌を投稿された方もおられました。
シニフィエ様は、実に真面目な方だと拝察しております。しかし、替え歌を掲載される余裕も備えておられます。私には、ブログに替え歌を掲載するという発想は微塵もありませんでした。
「テゲテゲ」の精神で、シニフィエ様がブログをリニューアル・オープンされることを念願しております。創価学会池田カルト一派を笑い飛ばすようなお気持ちで、ブログを再開されることを心よりお願い申し上げます。
創価学会池田カルト一派を相手にした訴訟で、文字通り、私は連戦連敗です。昨年7月から今年の1月までの期間、創価学会の副会長から、私は給料を差し押さえられました。香川大学創設以来、大学教授で給料を差し押さえられたのは、私が初めてとのことです。
しかしながら、「明るく楽しく元気よく」、私は前進して参る所存です。
400万アクセスを達成されたブログの主宰者であるシニフィエ様は、並外れた力量を備えておられます。しばしの「休息」後、シニフィエ様が、500万アクセスを目指されてブログをオープンされることを強く希望致します。
ランキングに参加していますので、クリックをお願い致します。
にほんブログ村
***********************************
これまで義捐金を振り込まれた皆様方には、心より厚く御礼申し上げます。皆様方からの義捐金の振り込み通知が届く度に、私は涙が込み上げて参ります。ありがたい限りです。
なお、義捐金の収支に関しては、裁判がすべて終了した時点で明らかにさせて頂きます。
誰も真似出来ない命がけの運動をされている
希望さまに敬意しております。
対話を求めての再開を待ちわびる1人の巴里と
申します。
必ず再開されるはずと訪れている人が
たくさんいますよね。
アクセス数が止まらないですもの。
今日、イタリアが創価とうんぬん感んと
ヤフーニュースに出てたので
こんな時に対話を求めてが
動いていたらなぁ。と思いつつ
白バラ通信で何か書かれてるかもと
思いやって来ました。
シニフィエさんに語り掛ける文章を見つけ
思わずコメントせずにいられませんでした。
常連さんはもちろん、それ以外でも
一万人は再開を待っていると思います。
ゆっくり休養されてから
頑張り過ぎずテゲテゲ o(^▽^)o
「対話を求めて」については、管理人さんの負担が大きくなってきたこと、ご自身が思う方向性を大切にする時機なのではないかと、あれこれ思っていたりしていました。
私は難しいことはさっぱり分からないままでしたが、自分が2世として経験した創価での奇妙なリアルをもって参加させていただき、現実的に考察できたことが感謝です。
相変わらず難しいことは分からないですが、人生を送る中で創価に惑わされる人があれば、現実的に寄り添う気持ちに変わりはありません。
今回の東京での選挙に新風を感じます。
拙いコメントで申し訳ありません。
こちらの場での希望さん、そしてシニフィエさんの(お名前一人歩きして炎上するのを心配してました。)無理のない更なるご活躍を願っています。。
創価で悩めるの方の光が絶えないことを
≪ 近年の週刊誌はその質の悪さ・下劣さで見るに堪えない。
政治の見方・考え方・主張は様々であってよい。政治的争点を鋭く追及することは言論の自由・報道の自由
の範囲である。
しかし、事実の確認とその証明もないところでの報道、しかも、私的生活の暴露と捏造報道は、選挙期間中ということもあって、「法的対処」の問題となるのは至極当然である。
報道機関が独断的に「事実を認定した」とするところのものが、すなわち、「法が許容するする」ところの「公的な事実認定ではない。
かつて、週刊文春は昭和60年頃までは記者・編集長ともに優れものがいたのだが、これほどまで文春社が誇りを失うとは・・・。 実に情けない。
メディアの質によってもその国の民度、国民の質の程度が知られるのは言うまでもないのだが・・・。
粗悪なネタで面白可笑しく世間をもてあそぶ者は、その該当者の人権を犯すだけでなく、社会的犯罪も犯していることになるのである。
日本の政治支配やメディアのあり方に対して世界が注目している。政治は三流、メディアは三流以下、国民は四流と世界から嘲笑に晒されているように感じて、恥ずかしい限りである。
こんな国民の文化度で世界に羽ばたく気骨ある若者が育つであろうか。日本国民の「民度」を揚げる責任がメディアにもあるだろうに・・・。
日本には世界に誇れる「優れたもの」が多々あるだけに、大変残念なことである。 ≫
≪ 「日本の玄関」・東京。それは世界へ向けての「日本の顔」でもある。
世界は、今回の都知事選挙をどうみているのだろうか?
ネット上、或いは週刊誌上に見られる姿がすべてではないだろうが・・・。これが、なんと、首都選挙。 あまりのお粗末さで 見るに忍びない。
「裏」がとれていない(ガセネタ)でデッチ上げのスキャンダル記事の応酬。「文春」といい、「新潮」といい、ここまで堕ちてしまうとは・・・。
かつては、事実を証明できないことを記事にするような出版社ではなかったのだが・・・。真の「保守」を自認し、追及してきた姿とはほど遠いものである。
裁判になった時、負けることを想定内としてのスキャンダル記事とも聞く。これを謀略と言わずしてなんと言いうるのか。
権力・利権を手放さないためには手段をえらばずとは・・・・。だれが企み、どういった勢力が影で「糸」をひいているのか・・・。単なる中傷合戦として見逃す訳にはいかないものがある。
『 病み上がりの役立たず・・・・』、『 厚化粧の年増女・・・』 なども、これまた、知性も品性もない酷い暴言である。
国を代表する議員、元知事の発言とは思えない。これが「美しい日本の姿」なのか・・・! 地方選挙でもこれほどひどい中傷合戦などはない。 日本にドロを塗る、日本の恥である。
神奈川県・相模原市の障害者施設で起きた大量殺人事件はこうした政治的・社会的背景の中で起きている。
これらの「汚い日本の姿」を 中・高生の多くがネットを通じて知るところとなっている。 それこそ、日本の将来が心配である。
情報操作に振り回され、一方的な宣伝に煽られる国民が「美しい日本」を創造したりはしない。
将来の日本を支える若者たちが厳しい目で見てることを知るべきである。 齢だけ重ね、利権・損得に汚れる大人の醜い姿、それもまた、反面教師なのかも知れないが・・・。どこまで腐っていけばよいのか !
「志」をかかげ、世界に大きく羽ばたく若者を求める者として、また、こよなく日本を愛する者として、その落胆と悲しみは深い!! ≫
大学と各種の専門学校で、法律学、哲学、社会学、家族社会学、家族福祉論、初等社会、公民授業研究、論理的思考などの科目を担当しています。
KJ法、マインド・マップ、ロールプレイングなどの技法を取り入れ、映画なども教材として活用しながら、学生と教員が相互に学び合うという参画型の授業を実践しています。現在の研究テーマの中心は、法教育です。
私は命ある限り、人間を不幸にする悪と闘い抜く覚悟です。111歳までは、仕事をしようと決意しています。