このブログとリンクさせて頂いているシニフィエ様のブログ「対話を求めて」に、下記のコメントを投稿致しました。
すると、早速、シニフィエ様が、「『なぜか功徳だと思ってたこと』あるいは『なぜか罰が怖くてやめられない私』」というテーマで、ブログの記事をお書きになりました。心より厚く感謝申し上げます。
シニフィエ様のブログhttps://signifie.wordpress.com/
に、どのようなコメントが寄せられるかが楽しみでなりません。
記
希望
2015年8月17日 21:07
「白バラ通信パンドラの箱」の希望です。シニフィエ様とコメントを投稿されておられる皆様の鋭い問題提起とご指摘を興味深く拝読しております。とても勉強になります。ありがたいの一語に尽きます。
さて、シニフィエ様にお願い致したいことがあります。「信仰を支える宗教的体験」(仮題)というテーマで、ブログの記事を書いて頂けないでしょうか。
かつては、私自身、様々な会合で「体験発表」を行って参りました。おそらく、シニフィエ様やコメントを投稿されておられる皆様も、私と同じように「体験発表」をなさったことがおありではないかと存じます。
しかしながら、最近、「体験」とは一体何だったのだろうかと考えるようになりました。
創価学会池田カルト一派が、巧みなマインドコントロールをしていることは間違いありません。
しかし、盲信の根拠を、単なるマインドコントロールだけに求めているだけでは不十分ではないかと考えるようになりました。
上手に表現できないのですが、創価学会を盲信されておられる方々は、いわゆる「現証」がその根拠の一つになっておられるのではないかと存じます。
シニフィエ様のブログで、「体験」と「信仰」の関係についての問題提起と考察をなさって頂ければ幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。
希望
2015年8月18日 00:53
シニフィエ様
希望です。私の問題提起をご理解頂き、心より厚く感謝申し上げます。
私が、学生時代に「創価学会入門」を読んで、唯一疑問を持ったのは、「文証、理証、現証」の箇所です。正しいという判断基準を、自分自身で設定すること自体が問題ではないかと考えたからです。
すなわち、このような基準を設けることは、自身の主張を正当化するだけに過ぎず、客観的な基準ではないのではないかと考えたからです。
にも関わらず、私は、日蓮正宗に入信し、創価学会に入会しました。今にして思えば、愚かの一語に尽きます。一言で述べるならば、私には、哲学と宗教に関する基礎的な教養と思考力がなかったからです。恥ずかしいの一語に尽きます。
ところで、勝手ながら、私のコメントを、「白バラ通信パンドラの箱」に掲載させて頂きたく存じます。
もちろん、私のコメントのみです。シニフィエ様のコメントは掲載致しません。ご理解とご寛恕の程、くれぐれもよろしくお願い申し上げます。
以上
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