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「永遠の命と思って夢を持ち、今日限りの命と思って生きるんだ。」

 私事になりますが、3月23日に、JR四国クレメントホテルで開催された香川県歯科医師会公益法人記念表彰式で、私は、香川県歯科医師会会長表彰を受けました。ありがたい限りです。

 

 そこで、今回は、2008年6月10日にX歯科技術専門学校で開催された座談会の記事をご紹介致します。

 

この座談会の模様は、ある雑誌に2回に分けて掲載されました。この座談会では、まず、私が提案をさせて頂きました。それから、他の参加者の方々と自由闊達な議論を行いました。

 

以下、この座談会の中から、私の発言のみを抜粋してご紹介させて頂きます。黒太の見出しは、雑誌の編集者が付けたものです。

 

      記

 

日本の社会の現状

 

こちらの学校では平成8年から、ずっと社会学を担当させて頂いております。

現在の専門学校についてお話する前に、まず、日本の社会の現状認識からお話したいと思います。今の日本社会は、目に見える形、あるいは根底の部分でも崩壊が始まっていると思います。

私自身が工学部の方々と一緒に、あるところで監視カメラについての研究にも携わっているので、産業界のそういう部門の方たちとの付き合いの中で、これまでの技術者も、昔は各専門学校や高校の技術部みたいなところで、ハンダを使ってラジオを作る、そういう基礎的なところから訓練されていたなんて話を聞くのです。

ところが、最近の工学部の教育になると、本当に狭いところしかやらないわけなのです。だから全体が分からない。

幸いにも今はまだ、ちょうど団塊の世代の人たちが、定年延長するような形でまだ残っているのですが、あと10年で本当に現場を支えたり、いろんな事柄を多方面からできる技術者がいなくなるそうです。

歯科技工士の方々も同じような状況にあると思うのです。あちらこちらで、根底の部分において大変な事態が起きているなと思います。

それが目に見えたときにはもう遅い。幸い、それでもまだこの学校のように何とかしようと気づかれて、本当に必死になっておられるところもある。逆に言うと、どうやってピンチをチャンスに変えるかということだろうと思います。

私は香川大学で学生と接しておりますと、次のように感じます。大学生としてのプライドは持っていますが、基礎学力は中学生。

なぜかというと、大学入試の段階でセンター試験があって、受験科目をアラカルトで取るものですから、世界史は取っているけど日本史は取っていない場合がある。それで、明治維新とフランス革命の対比が出来ないわけです。

だから私たちの目からすれば基礎学力は中学生とさほど変わりはしない。そして、困ったことにプライドだけは大学生なのです。

それに比べて、専門学校の方々は、感性が非常に豊かだなあと思います。感覚的に優しい。文章も随分書けるようになってはいくのですけれども、やはりデコボコがあります。

衛生士学校で大変なところは、いわゆる文化系の女性が大多数で、その人たちが化学とかをたたき込まれる。しかも、衛生士に必要な、あるいは、国家試験に必要な部分だけをアラカルトに習うことになるので、基礎的なベースが非常に低いレベルになっている。

 

全人的な教育

 

そういう中で、X歯科技術専門学校がどういうところを目指すべきかということを、ご提案という形で申し上げます。

まずは、専門学校というのは大学と比べて非常に小回りがききますので、いろいろな可能性を秘めていると私は思います。技能を身につけるということを主な目的にしていながら、なおかつ見識を備え人間味のある人間を養成する必要があります。

そのためにも、スローガンを掲げたい。我々の大学でも「高度専門職業人を目指そう」とか言っていますが、社会で生きるからには、社会参加はしないといけない。政治に参画できないけれども専門技術で社会を支えている奴隷がいたギリシア時代と違って、現代に生きる我々はトータルな人間として生きることが必要だと考えるわけです。

Y医療専門学校のA事務局長が言っておられたのが、「専門的な、技能的なことを教えられる先生はいくらでもみつけてこれる。問題は教養だ。」と。幸いにも、私のほうでそういう教養的なものを担当するようにと言われていますので、いろいろやっている最中です。

  ところが、それをやろうとする際、すでに非常に大きな問題が存在する。人の言うことを鵜呑みにせず自分の頭で考えるという教育がなされていないということです。

私が一番悪いことだと考えているのは、人間の心を操作して、考える力を奪って意のままに動かす。そういうふうな人たちが、戦前でも今でもたくさんいるわけです。そういうことを見抜けるし、なおかつ間としてトータルで生きられる人を育てたいと考えています。

 

2.5人称の視点

 

柳田邦男さんが日本経済新聞に「専門化社会のブラックホール」と題して載せた文章に、「潤いのある2.5人称の視点を」ということが書いてありますが、被害者とか病人とか障害者とか社会的弱者とか、そういう人々が問題を抱えたときに、家族のような気持ちで寄り添う、わが身の問題として寄り添う、それは2人称と言っていい。あなたと呼べる愛し合う関係、2人称関係のなかで考える。そうするといろいろ違うことが見えてきて、大事なことは何かが分かってくる。

ところが2人称には問題がある。感情の同一化が起きてしまうことです。一緒になって泣き叫んだり、失望したり、死にたくなったり、これでは専門家として役割を果たせないわけです。専門家はやはり3人称の立場を維持しなければならない。

だけど今の専門化社会の3人称は、乾ききってひび割れていると言ってもいい。そこで3人称の客観性を維持しながら2人称で寄り添う気持ちを持つ、そういう二つの見方を持つことで、2.5人称という言葉を一生懸命キャンペーンしています。

これからますます専門化が進んでいく中で、2.5人称の視点は、人間味のある医療が成立する上でとても大事な問題だろうと思います。単なる専門家であってもダメだし、当事者になってもまた困るのです。専門家である先生方のところでは、毎日歯のトラブルを持った患者さんと関わっているわけですが、双方が、感謝し合える関係を目指したいものです。相手の身に寄り添いながらなおかつ冷静さを損なわずに、相手の立場に立ちながら接してあげましょう、というようなことを学生には話しております。

 

メダカの学校

 

その上で具体的には、学校でどうするかという話です。今度は話が全然違う角度になるのですが、「共に学ぶ」という学校を作る。

私が今スローガンを掲げるとすれば、「スズメの学校」ではなくて、「メダカの学校」。スズメの学校は、先生が鞭を振り振りチーパッパでしょう。メダカの学校は川の中、誰が生徒か先生か。

私は絶対あの人たち(学生)にはかなわないです。何がかなわないかというと、まず女性であるという一点において、私とは違う物の見方、考え方をするはずだということです。しかも、歯科衛生士になろうとする人たちと私とは違いますね。

だから社会学の授業では、初めに課題を与え、映画を共に見た上で、その内容を解説し、その上で、レポートを書かせています。教壇から一方的に教えるということはしていません。

昔、私が講義を受けた大学の先生の中には、こうやってこう、天井見ながらしゃべる方がおられましたが、それはいやでたまらなかったです。

なんでそうなるのかというと、自分が一方的に教えると思っているからそうなるのです。それはまちがい。

  お互い相手から学ぼうと思うようになれば、関わり方が違ってくるはずです。そういう意味では、「お互いに、共に学ぶ」。学ぶ側も、伝える側も、両方がちゃんとしていないと、教育にはならないのです。教師が良ければ学生も付いていこうと思うし、良い学生がいると教師も良い教え方を思いつけるはずです。お互いに学ぶという意味で、まさにメダカの学校が理想的なのです。

そのためには、技能的な事柄を教える場合には、最初にこういうことをやってみたらと思うわけです。まずは全容を教える。全容、全体像をつかませる。大きなところから細かいところへ移った方が良いと考えています。

  以前、香川大学医学部がまだ香川医科大学であった頃、社会学を学生に教えに行っていましたが、彼らは、国家試験の勉強はチームでやっていましたね。

ところが、看護学校や衛生士学校では国家試験対策をチームでやったりはしていませんね。

ここの衛生士学校には、大学を辞めて入ってくる者や、主婦をやりながら入ってくる者、高卒ですぐ入ってくる者、いろいろいますね。そういった学生達をうまく組み合わせてチームで学習させて、教務や講師の先生方がスーパーバイザー的な存在でチームをサポートし、歯科医師会会員の先生方がこれに絡んで何かアドバイスをする。そんなやり方もあっていいのではないかと思います。自分で問題設定をして、聞いて、考えながら、みんなで学問をする。そういったスタイルです。

  それから、校長、教員、講師、会員、学生、全ての方々を集めて「教育について語る会」を作って、いろいろ考えながら対応をしていけば、必ず学生には伝わると思います。

そして、そういったざっくばらんな会では、それぞれの立場が反映されてそれはそれで構わないのですが、身分関係を離れた自由達な議論が展開されることが好ましいので、芸名、ハンドルネーム、何でもいい、自分が呼んでほしい名前で参加することですね。

今ここでやっている議論なんかも、せっかくやったからには、世に出さないといけないと思います。

学校がピンチなわけです。ピンチだからこういう会も持たれるようになった。全国でもいろいろ困っている学校はいっぱいあるわけですから、こんなことを考えてこんなことをしましたよ、というのを活字に起こして実践録として活用、お互いに生かして、チャンスへと変えないともったいないですね。

 

啓蒙とは何か

 

最後に、「啓蒙(啓発)とは何か」ということを話して終わろうかと思います。

カントの説く定義があります。「啓蒙とは何か、それは人間が自ら招いた未成年の状態から抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからでなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気も持てないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは『知る勇気をもて』『自分の理性を使う勇気をもて』となる。」

学生には、図書館に行ったりして、幼児向けの本をたくさん読みなさいと言っています。歯科医院で、子供に関わる時間が長いのは、歯科医師ではなくて歯科衛生士なのですから、自分の理性を使って活動できる衛生士が増えれば、衛生士の魅力や価値が上がり、学校が人材に困ることも無くなると思います。

そういうふうな理念に立って、新しい学校を作っていったなら、ほかの学校がどうであっても、ここには人がいっぱい集まるだろうし、オックスフォードのような立派な人がどんどん輩出できるのではないかと思います。

こういった理念は単に掲げるだけではだめだと思います。高校の進路指導の先生でもいい、とにかく、学校に関わっているいろいろな人を集める機会を作り、みんなで語り合いながら、活字でなく心に残す。

歯科衛生士や歯科技工士の仕事は収入の面では大変かもしれないけれど、成功している人だっていっぱいいる。大変でも、人間的な成長があったり、やりがいがあったら続けていけるわけです。今回の座談会を契機に、いろいろな集まりを立ち上げてゆけば、必ず、それに惹かれる人が出てくると思います。

  最後にもう一言。われわれは誰もが理想を持って生きていると思いますが、人生は明日をも知れない一瞬のものです。みんなで、いろんなことを掘り下げて、共通の夢、理想、ビジョンを持ち合えば、目指すべきところがどんどん出てきて、いろいろな形となって現れてくると思います。夢を形にしましょう。

 

                         つづく

 

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本名:髙倉良一(たかくらりょういち)
性別:
男性
職業:
大学教員
趣味:
思索と散歩と映画鑑賞
自己紹介:
HN:希望
大学と各種の専門学校で、法律学、哲学、社会学、家族社会学、家族福祉論、初等社会、公民授業研究、論理的思考などの科目を担当しています。
KJ法、マインド・マップ、ロールプレイングなどの技法を取り入れ、映画なども教材として活用しながら、学生と教員が相互に学び合うという参画型の授業を実践しています。現在の研究テーマの中心は、法教育です。
私は命ある限り、人間を不幸にする悪と闘い抜く覚悟です。111歳までは、仕事をしようと決意しています。
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