本日2月28日の午後、完成したばかりの論文をご紹介させて頂きます。一応、学術論文のスタイルで執筆しております。最後まで、ご高覧頂ければ幸いです。
誤字脱字や、表現を改めた方が良いと感じられる箇所があれば、コメント欄でご指摘頂ければありがたい限りです。
日本国憲法の最大のピンチを最善のチャンスに変えるための3つの提案
香川大学教育学部 髙倉良一
日本国憲法が直面している最大のピンチ
昭和21(1946)年11月3日に公布され、翌年の5月3日から施行された日本国憲法は最大の危機に直面していると思われる。
平成24(2012)年4月27日に、自由民主党は日本国憲法改正案を決定した(1)。さらに、平成24(2012)年12月26日に誕生した自民党と公明党の連立内閣の下で、第96代の内閣総理大臣に任命された安倍晋三氏は日本国憲法第96条の改正に取り組むことを明言した。
現行憲法では、憲法改正の発議には各議院の総議員の3分の2以上の賛成が必要とされている。しかし、安倍総理大臣は、各議院の総議員の2分の1に改正すべきだと主張している(2)。
平成26(2014)年2月26日現在、自民党と公明党の国会議員は衆議院と参議院で過半数を占めている。野党の中にも、日本国憲法の改正に賛成を表明している政党がある。
このような状況から、日本国憲法が改正される可能性は極めて高くなっていると思われる。日本国憲法は最大のピンチに直面しているのである。
しかしながら、「ピンチの裏にはチャンスあり」である。本稿では、日本国憲法が直面している最大のピンチを、最善のチャンスに転換するための方策の骨子を明らかにしたい。
自民党の憲法改正案の特質
自民党の憲法改正案には「立憲主義をはじめとした現行憲法の基本を骨抜きにする多くの問題点が含まれて」いると指摘している伊藤真日本弁護士連合会憲法委員会副委員長は、その問題点を「①立憲主義の放棄、②平和主義から戦争ができる国へ、③天皇の元首化と国民主権の後退、④人権の縮小と義務の拡大」という4点に集約している(3)。そして、この憲法改正案は、「『個人の人権を守るために国家を縛る憲法』から、自民党の政治家が自分たちの作りたい国家を作るために、『国民を支配する道具としての憲法』に転換するものと言ってもよい」と断言している(4)。
認知科学者の苫米地英人氏は、自民党の憲法草案は、「官僚たちが、本当に通したい、改正したい条文はなるべく控えめな文章にし、その前後には大見出しになるような派出な改正条項を入れ」ている結果、「国民にとって本当に危険な条文はほぼ草案通りに通過」させることが狙いであると主張している(5)。
苫米地氏は、自民党が提出している憲法の改正案には、以下の4つの爆弾とも称すべき問題点があるとの見解を示している。
第1点は、現行憲法の前文の改正は「実質的に主権を国民から奪う」ものであると指摘する(6)。
第2点は、改正案で創設された第9章緊急事態は「事実上、国会を潰してしまうことになる。」と述べている(7)。
第3点は、改正案第15条の3の公務員の選定では「官僚たちは国民の代表である政治家」と同等の立場になり、「国会の承認を得なくても、公務を行う人が選べることになってしまう。」と指摘している(8)。
第4点は、改正案第65条の行政権は「官僚は、立法権に加えて、独立した行政権をも手に入れることになる。」と述べている(9)。
なぜ、危機的な状況が生じたのか
なぜ、日本国憲法の性格を根本的に変更してしまうような自民党の改正案が発表されたのだろうか。
なぜ、「国会発議に次いで国民投票が行われれば、改憲案が過半数の賛成を獲得する可能性も十分にあり、一気に憲法改正が実現してしまうかもしれません。」(10)と指摘されるような状況が生じたのであろうか。
根本的な原因は、わが国で行なわれて来た日本国憲法に関する教育が、その功を奏していないという点に求めることができるのではないかと思われる。
司法試験の予備校の塾長でもある伊藤真氏は、「私たちの塾に通う学生の多くは憲法と法律の違いを知らない」上に、「小学校から憲法を学んでいながら、憲法で最も大切なことを知らない。」と指摘している(11)。将来、裁判官、検察官、弁護士を志望している大学生ですら、このような状態なのである。
日本国憲法に関する教育が失敗した結果、各種選挙における投票率は低下し続け、戦前の治安維持法よりも悪法であると指摘されている特定秘密の保護に関する法律が制定されるに至ったのではないだろうか。
日本国憲法の特質
日本国憲法は、大日本帝国憲法が改正されたものである。日本国憲法と大日本帝国憲法の最大の違いは、主権者が天皇から国民に変わった点に求められる。
主権者の変更がなされた結果、日本国憲法は「世界のどの国の憲法にもない、国民が主権者であることを強調している憲法」であり、「戦争放棄、平和主義も、国民が主権者であるということの上に成り立っている」と指摘されている(12)。
主権者の交代によって、日本国民は、大日本国憲法に規定されていた天皇と同じ地位に就いたとみなすことが可能ではないだろうか(13)。
とするならば、日本国憲法が想定している日本国民には、大日本帝国憲法で主権者とされていた天皇と同等の自覚と見識を有することが求められるのではないだろうか。
ピンチをチャンスに転換するための具体策の骨子
日本国憲法の危機を招いた真の原因が、これまでの憲法教育の失敗に求められるとするならば、その解決策もまた教育に求めるべきではないかと思われる。以下、日本国民が、日本国憲法の想定している主権者となるための具体策の骨子を示すことにしたい(14)。
具体策は、①三歳児から始める憲法学習、②憲法検定試験制度の導入、③請願権の活用の3つである。
まず、三歳児から始める憲法学習とは、幼稚園や保育園の段階から憲法に関する教育を開始しようとの提案である。幼稚園、保育所、小学校、中学校、高校、各種専門学校、大学、大学院のすべての教育段階で、その発達段階に合わせた憲法教育を行うのである。小学校を例にすれば、1年生から6年生までのすべての学年で憲法を学ぶ機会を設けるのである。
この憲法教育の到達目標は、三歳児から大学院生に至るまで、日本国憲法の大事なポイントを、自分自身の言葉で具体的に説明できるようになることである。三歳児は三歳児なりの表現で、大学院生は大学院生なりの表現で、日本国憲法を語ることができるようになることを目指すのである。
つぎに、憲法検定試験制度の導入とは、憲法学習の成果を評価するための検定試験制度を創設しようとの提案である。
日本国憲法第99条では「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と規定されている。また、小学校、中学校などの各種教員免許の取得に関しては、日本国憲法の単位の修得が要件とされている。
とするならば、少なくとも公務員と教員に関しては、憲法検定試験で一定の成績を有することが必須であると主張することには合理的な根拠が存するのではないだろうか。
それから、請願権の活用とは、三歳児から始める憲法学習と憲法検定試験制度の導入を立法によって実現させるための方策である。これらの2つの具体策は、いずれも新たな法律を制定しなければ実現できない。
そこで、日本国憲法第16条に「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。」と規定されている請願権を活用するのである。
請願権は、「為政者と被治者の同一性(国王と臣民という関係ではない)という民主主義の基本原理からもたらされている国民の能動的権利」であり、「国政の主権者であり、国政の信託者である国民が、具体的な政治的意思の反映を国政担当機関に求める権利」であると解釈すべきものである(15)。
このような解釈を前提にして、三歳児から始める憲法教育と憲法検定試験制度の導入を求める請願を、安倍晋三内閣総理大臣に行なうのである。
さらに、この請願に対して、「一切の返答が無い場合は、請願署名者が原告となって、不作為の違法確認訴訟を起こす」のである(16)。すなわち、日本国憲法の改正を明言している安倍内閣総理大臣を相手にした訴訟を起こすのである。
憲法大学習運動の可能性
上述の3つの具体策を憲法大学習運動と銘打って実践するならば、日本国憲法の最大のピンチを最善のチャンスに転換することができるのではないかと思われる。この運動の副次的効果として、学校現場で問題とされているいじめや自殺や体罰なども激減するのではないだろうか。各種選挙での投票率の低下にも歯止めがかかるのではないだろうか。
憲法大学習運動の最大の特質は、日本国憲法の改正を主張する者も、その改正に反対する者も、いずれも反対することはできないと思われる点に存する。憲法改正の是非を判断する上では、現行の日本国憲法の内容を十分理解することが必要不可欠である。「小異を捨てて大同に就く」という言葉があるが、日本国憲法を学習するとの一点で、改憲派にも護憲派にも「大異を棚上げにして天道に就く」ことが求められるのである。
憲法大学習運動を展開することは、「権力主義全体主義の国家は一時的に興隆であろうとも、必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。」と述べ、「ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです。」(17)との遺書を残し、特攻出撃された上原良司氏をはじめとする第二次世界大戦で亡くなられた方々に対する最高の追善供養になるのではないだろうか。
日本国民が憲法大学習運動を展開するならば、日本が「国際社会において、名誉ある地位を占め」ることは間違いないであろう。中国や韓国などの近隣諸国も、日本に対する対応を見直さざるを得ないであろう。
日本国憲法が最大の危機に直面している今、日本国民が憲法大学習運動を展開することは、まさに天道に適ったものである。日本国民は、国家としてノーベル平和賞を受賞しようとの決意をするべきではないだろうか。
注
(1)自由民主党のホームページ「自民党Lib Dems」(https://www.jimin.jp/index.html)に、自由民主党憲法改正推進本部が、平成25年10月に発表した『日本国憲法改正案Q&A(増補版』(https://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf)が掲載されている。
(2)日本国憲法が施行されてからこれまで、憲法の改正手続きを規定している第96条の改正を目指すことを公言した総理大臣は、これまで1人もいなかったように思われる。
(3)伊藤真『憲法は誰のもの?-自民党改正案の検証-』3~4頁(岩波書店、2013年)。
(4)伊藤同書62頁。
(5)苫米地英人『憲法改正に仕掛けられた4つのワナ-自民党案によって、国民の主権は奪われ、国会は無力化される!』6頁(株式会社サイゾー、2013年)。
(6)苫米地同書18頁。自民党の憲法改正案の前文を詳細に分析した研究としては、中富公一「憲法96条改正の狙い:自民党改憲案前文を読む」調査と研究225号3頁(2013年)以下参照。
(7)苫米地同書21頁。
(8)苫米地同書51頁。
(9)苫米地同書51頁。
(10)伊藤前掲書3頁。
(11)伊藤真「憲法を実践する法律家養成の中で-中高生に対する憲法教育の大切さ」全国法教育ネットワーク編『法教育の可能性-学校教育における理論と実践-』133頁以下(現代人文社、2001年)。)
(12)生田暉雄「改憲に抗するために、すべきことは何か。」月刊むすぶ第44巻第6号36頁~37頁。
(13)もちろん、このような解釈をするならば、日本国憲法の規定している天皇と国民との関係性を明らかにする必要がある。この点については別の機会に論ずることにする。
(14)具体策の詳細については、別の論稿で明らかにする予定である。
(15)生田前掲論文38頁以下。
(16)生田同論文42頁以下。
(17)日本戦没学生記念会編『新版 きけわだつみのこえ-日本戦没学生の手記-』19頁(岩波書店、1997年)。
参考文献
吉田英司『憲法的責任追及論2』(関西大学出版部、2010年)
奥平康弘・愛敬浩二・青井未帆編『改憲の何が問題か』(岩波書店、2013年)
梓澤和幸・岩上安身・澤藤統一郎『前夜-日本国憲法と自民党改憲案を読み解く』(現代書館、2013年)
大江健三郎・奥平康弘・澤地久江・三木睦子・小森陽一『いま、憲法の魂を選びとる』(岩波書店、2013年)
木山泰嗣『憲法がしゃべった。-世界一やさしい憲法の授業-』(すばる舎、2011年)
初宿正典・辻みよ子編『新解説 世界憲法集 第2版』(三省堂、2010年)
童話屋編集部『復刊 あたらしい憲法のはなし』(童話屋、2001年)
水島朝穂『はじめての憲法教室-立憲主義の基本から考える-』(集英社新書、2013年)
木村草太『憲法の創造力』(NHK出版、2013年)
井上ひさし『二つの憲法-第日本帝国憲法と日本国憲法-』(岩波書店、2011年)
笹沼弘志監修・野村まり子・絵・文『えほん日本国憲法-しあわせに生きるための道具-』(明石書店、2008年)
響堂雪乃『独りファシズム-つまり生命は資本に翻弄され続けるのか?』(ヒカルランド、2012年)
コーネル・ウェスト著 越智博美・松井優子・三浦玲一訳『民主主義の問題-帝国主義との闘いに勝つこと-』(法政大学出版局、2014年)
湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版、2012年)
小熊英二『社会を変えるには』(講談社、2012年)
前田勉『江戸の読書会-会読の思想史-』(平凡社、2012年)
ザルマン・カーン著・三木俊哉訳『世界はひとつの教室』(ダイヤモンド社、2013年)
安冨歩『もう「東大話法」にはだまされない-「立場主義」エリートの欺瞞を見抜く-』(講談社、2012年)
一昨年12月、安倍政権の発足後、憲法改正への意欲を度々表明し、憲法の何を変えるのかという「肝心なこと」は何故か伏せながら、憲法改正の「発議要件」を緩和する「96条改正」を打ち出しました。しかし、昨年初め、世論の凄まじい反撃に遭い、いったんトーンを弱めてきていました。
昨年の参議院選挙後まで殆んど姿を現さなかった「特定秘密保護法案」を強行採決させると、すぐさま、北朝鮮、中国からの危機感をテコに「安全保障の厳しさ」を強調し、米軍と自衛隊の一体的な行動推進を図るための「法的条件整備」をし、更に一歩すすめて、「集団的自衛権の行使」の容認について内閣府によって見直すことを宣言し、着々と具体的な推進を図っています。
それは、従来の「 国家安全保障戦略」を大きく見直し、あたかも、自主防衛を前面に打ち出し、「専守防衛を実質的に放棄する」かのような激しい転回を見せています。
これまでの内閣が禁じてきた「集団的自衛権の行使」を、政府が「憲法解釈で可能とする」ことは、憲法9条は現状より更に空洞化し、更に、その後の本格的「改憲」・「国防軍設置」へ向けての敷居を下げさせることに繋がっていくことになるでしょう。
( 解釈改憲が先行すれば、本格的改憲がやりづらいという一部自民党内の考え方があるようですが、安倍政権は本格改憲を見通しての解釈改憲と考えていると予想ができます。)
安倍内閣の誕生以来、こうした安倍政権の強権性の急転回は、日本を「戦争のできる国」に作り替える道をつき進んでいるかのようです。
なぜ性急に結論を出し、ものごとを推し進めねばならないのでしょうか。
まだ、景気、経済に対する期待感で支えられているうちに、そして、まだ野党が分断され、野党再編がまとまらないうちに、決着をつけてしまいたいというのが、自民党内でも安倍信奉者の思惑のように思われます。
こうした一連の激しい動きを考えるにあたって、『 憲法とは何か?』に視点を置いて、『 特定秘密保護法案』が成立した問題から考える必要があるように思います。
私たちは、去る11月26日の臨時国会で、平成の「治安維持法」とも言われる『 特定秘密保護法案 』を衆議院で強行採決されました。
この法案は、1985年国民の激しい批判でお蔵入りした「秘密保護法案」の焼き直しで、昨年夏の参議院選挙では自民党の選挙公約としてあげられていなかった法案です。勿論、公明党にも「選挙公約」はなかったのです。
それは、我が国の安全保障にとって米国との情報の共有に不可欠だとし、それに支障を与える恐れのある情報( 防衛、外交、テロ防止、スパイ防止に関わる情報 )を特定秘密に指定し、漏洩した者は最高10年の懲罰刑などの厳罰に処せられる、とするものです。
それは、「何を秘密とするかは」権力者の「恣意」がまかり通るもので、特定秘密に触れる者には、本人及び関係者も「思想調査」をするという、戦前の「特高警察」を連想させるものです。
この法律では、行政府による情報の独占を可能にするもので、何が秘密かを決めるのも管理するのも行政府で、肝心の国会は監視できる強い立場を与えられていないのです。
また、両院での審議の総時間は68時間で、200時間を超すこともあった過去の重要法案に比べて余りにも少なすぎると言わざるを得ないでしょう。
国民の6割から7割が今国会の法案成立に反対し、ほとんどのメディアも民主主義の否定だと声をあげ、連日のようにデモが行われる中、国家主義的体質を全開させました。
このことは、行政府の権限を強め( 立法府を相対的に弱め )、行政府が民意から離れていくことを益々促進することになっています。その結果、多くの国民から離れて、『 選挙でそのようなことまで頼んだ覚えはない! 』という政策がどんどん勝手に進んでいってしまうことになるのです。
しかし、日々の統治を担う行政府に対して、市民・国民が『 異議申し立て』をすることは容易ではないでしょう。
この度の件は、世論の盛り上がりを政府が恐れて、国民の目が覚めないうちに決着をつけてしまいたいと考えての「強行採決」であったように見受けられました。そして、大衆の『 異議申し立て』はそうそう容易ではないことを見通しての「政治的手法」であったように見えたのです。
急激な「円安と株高」の操作によって内閣支持率を誘導し、参議院選挙まで強権政治を覆い隠していた安倍政権は、選挙に勝利するとすぐさま、その政治手法は議会政治の軽視、一党独裁、市民の政治的自由の抑圧など、、「ナチスの手口に学べ」、「 デモはテロに通じる」、「 軍国主義者と呼びたければどうぞ 」などと、ファシズムの体質を公言して憚ることはありませんでした。
国家権力の最高機関は国会であり、内閣ではありません。(憲法第41条)
その時々の政府はこの最高機関=国会の承諾・監視に基づいて行政権が執行されるというのが、「 立憲政治」の常道です。
このことを国民一人ひとりのレベルに引き寄せて考えると、私たち国民一人ひとりは、投票日だけの「有権者」ではなく、日常的に「主権者」として行動できることが再認識されねばならないのです。
このことが、残念ながら世間一般どころか、政治家やジャーナリストにおいてさえ、余りにも軽く見られ過ぎているように思われます。
( 選挙戦時のニュースだけではなく、日常的に、憲法内容についての噛み砕いた事例や、立憲政治の精神を基調とする国会運営の有るべき姿等について、大手紙やテレビ報道など、メディアの継続的な啓発の取り組みが殆んど見られないのは残念なことです。)
国民は、「選挙での多数派」の政策について賛成できない場合でも、その決定に従わざるを得ない場合も多々あることを知っています。しかし、国民の「 生命・安全・財産の保障、思想・信条・表現の自由 」などの人間としての「基本的権利」( 自然権 )においては、議員や政府・首長にお任せの政治ではなく、何ものによっても侵されてはならないものとして、私たちは、時には政府・首長に対して『 請願』し、時には行政府へ『 異議申し立て』できる「主権者」でなければならないと考えるものです。
しかし、日々生活に追われ憲法や法律を身近に感じて生活している訳ではないがゆえに、具体的な不満・要求が溜まっていても、統治を担う行政、とりわけ国家行政に対して、憲法に照らし合わせて一人ひとりの国民が自立的に考え、自由と責任の自覚をもとに、『 異議の申し立て』をするのは容易なことではないようです。
( こういった意味において、日本は本当に民主主義を基調とする国なのか、日本の歴史と世界の歴史に学び、そして世界の現況に目を向けて成長している国なのか、不安に思うところが大いにあるのですが・・・。)
ファシズム国家として太平洋戦争に突入してから72年、今後日本は、民主主義を捨てて「 新たなファシズム」に突入しようとしているのでしょうか?
※ 参考資料・・・「憲法は誰のもの?」(伊藤 真)、「日本人は民主主義を捨てたがっているのか?」(想田和弘)、「地方紙、中央紙など多数」
コメント、ありがとうございました。
憲法に関する拙稿を掲載した直後に、素晴らしい
コメントを投稿して頂き、誠にありがとうございま
した。
そのスピードと論調の素晴らしさに感服致しました。大変勉強になりました。
今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。
世界には、憲法があって「 無いに等しいような国」があります。
国家として対外的な姿を示すために憲法を持っているようですが、その中身、その機能・役割はどうでしょうか? 「 危うい国」もあるように見えるのですが・・・。憲法に基づく統治の上に、「 一党専制支配」を認めている国もありますから。
未来の子供たちのためにも、将来にわたって日本をこのような国にしてはならないと強く決意するものです。
日本の「 憲法」はどうでしょうか?
よそ事ではありません。我が国の安全保障のあり方について「 憲法論議」が急転回されています。
2月中旬、安倍総理は、「 集団的自衛権」の見直しは可能で「 閣議決定で決定します」、「 解釈改憲の最高責任者は私です」など、突然、大統領にでもなったかのような甚だしい暴言を発していました。
< 坂田雅裕元内閣法制局長官は20日、参議院会館で講演をし、集団的自衛権行使を可能にするため、安倍首相が憲法解釈の変更を目ざしていることについて、「 憲法だけなぜ政府解釈で変更をやってもいいことになるのだろうか。そんなことで許されるのなら立法府はいらない」と批判し、坂田氏は、憲法改正には国民投票が必要なことに触れ、「政府解釈でやったら国民の出番もない」と指摘した。>
こうした背景から、今こそ、国民一人ひとりが憲法問題を『 憲法と民意 』という視点で、自分の問題として真剣に考えねばならないことが迫っているように思われます。
世界の民主主義国では、国民の多数意思によって政治的なものごとが決められています。日本でも、選挙で多数を占めた政党が国会の多数になって立法権を担い、そこで国の基本政策が決定されています。内閣総理大臣もそこで選ばれ、内閣を組織し行政権を担っていきます。
しかし、選挙で議員や首長を選べばそっくりそのままで「 民主主義が機能している」と考えるのは、「 思い込み」・「 幻想」ではないでしょうか。
その例は身近な市政においても、広くは国政においても、いくらでも具体的な場面を見ることができます。
何の権限も持たない私たち国民は、「 この課題の結論は民主主義的な手続きを踏まえているのです」などと宣伝する統治者( 真の支配者の代弁者)によって、これら「 思い込み=幻想 」を信じさせられている場面も多いと考えねばなりません。
このことは、一党独裁の「 北の国」や「 隣の大国」のことではありません。今や日本に於いての問題だからこそ、国民一人ひとりが自分の問題としなければならないのです。
本当に、日本では、国会内の多数意思とその時々の国民の意思とは常に一致するものでしょうか。国会内の多数意思は ”常に正しい”のでしょうか。よくよく考えてみなければなりません。
その例は、一昨年の衆議院選挙の結果からも実際に考えられるところです。
自民党294議席( 61.3%)という圧勝の数字は、小選挙区で約40%の得票率で80%の議席数を獲得したというものによって成立したものでした。それは、そっくりそのまま国民から絶対的な支持を得たものと解釈することはできませんでした。
比例区の自民党の得票数は1,662万票で、大敗した前回を「 220万票」も下回っており、得票率も前回並みの「 27.6%」でした。
この低い得票率は、国会の多数派の自民党が、国民全体の多数派とは限らないということを意味しています。
その時の自・公の圧勝は、誰が見ても「 民主党の敵失」、「 野党の小党乱立」など、漁夫の利によるもので、自・公は選挙協力を徹底して闘い、自民党は創価学会票( 組織票)の協力を得て、得票率をはるかに超えた「 過大な議席」を獲得してしまったのです。更に、投票率の低さが組織票( 創価票)の効果を絶大なものにしていたのです。
政治理念が基本的に大きく異なる公明党が、創価票を武器にして「 政権参加」すること自体、民主主義を愚弄するものですが・・・。
※ 今年2月の都知事選挙では、投票率が 46%で、自・公支持の「舛添氏」の得票率は、有権者総数からすれば 19.7%で、宇都宮氏と細川氏の合わせた得票率は18.1%で大きくさがあるわけではないのです。
都民の有権者の約 20%の支持で圧勝したかのように公明党・創価学会は誇示しています。
何も決められない立法府でも困りますが、少しの世論操作や不健全な政治的野合によって一党独裁体制に近いものが生まれてしまうのも、民主主義の健全な発展にとって危うい問題です。早急にこの問題は解消すべきですが、党利党略が先行し、国民は「 蚊帳の外」に置かれています。
現在の小選挙区制度は、健全な二大政党政治の成立をめざしたものであったのですが、比例区の「 小党乱立」や、小選挙区での「 選挙協力の匙加減」一つで、どちらかの大政党に過大な議席を与え過ぎ、二大政党を作りたいという有権者の意思が実現しにくい状況を作り出しています。
また、Ⅰ区Ⅰ議席の小選挙区制度によって引き起こされる「 死票が多くなる」という問題から、獲得議席数が得票数に応じて正しく反映されず、立法の場での「 国会の多数意思」と「国民の多数意思」とが乖離しやすくなっていることは明らかで、民主政治にとって望ましいものではありません。
選挙区の違いによる『 一票の格差問題』は、小選挙区による「 死票問題」と同等以上に、選挙民の正当な権利( 民意を正しく国会に届けるという権利)を大きく損なうものとして深刻な問題です。
◇ こうした問題を背景に抱えているところから、選挙で与党を成立させる政党に票を投じても、個別の政治課題においては、時の「 政権の意思」と「 国民の意思」が一致しないことも大いに有り得るところです。
この度の「 TPP問題」や「 原発再稼働問題」では、自民党支持者にも異なる意見の有権者がかなり多いとみられるのは、その典型的な例と考えられます。
例えば、昨年夏の参議院選挙、そして今回の都知事選挙においても、「 原発再稼働の賛否問題」が選挙の大きな争点とされていました。
その時の大手新聞社の全国世論調査では、その賛否の傾向として「 再稼働賛成は 40%未満であり、衆議院選挙で圧勝した自民党の議席数 61.3%との乖離はかなり大きいと言えます。
※ 3月2日、共同通信による:「 原発再稼働の是非」を問う「 30キロ圏内自治体アンケート」では、156自治体中、すぐ容認13、条件付き容認24、容認しない32、判断できない66%、その他21、でした。再稼働賛成は37自治体で 23.7%でした。
「 今後原発はどうあったらよいか」という問いに対して、即時ゼロ3、段階的に減らしゼロに78、一定比率を維持25、震災前の維持Ⅰ、以前より増やす0、でした。( 地方紙に掲載)
即時と将来を合わせゼロにするは81自治体 51.9%で、将来にわたって一定数維持は26自治体 16.7%でした。
つまり、選挙では自民党へ票を投じたものの、「 エネルギー政策」については、政府の考えに賛成できない選挙民が相当数あるということを示しています。
東日本大震災の津波で犠牲となった人々の悲しみは測り知れないのですが、福島原発の被害で、現在もまだ土地も家屋も廃墟と化し、古里を奪われた方々の、憲法で保障されている「 生命・安全、財産の権利」の回復はどのようになされるのでしょうか。
昨年の参議院選挙まで、自民党・政府は「 再稼働むを強く表に出さない選挙戦を進め、都知事選挙で勝利するとすぐさま「 再稼働」のお墨付きを国民から得たかのように、何憚ることなくメディアを利用し、強引な「 世論形成」を図っています。
上に見てきたように、国政選挙の投票率の低さね小選挙区制度の弊害、一票の格差の問題、政教一致の政党の政権参加の問題等々、国民の投票行動( 主権者の意思表明)が正しく「 国会の意思」として届けられない状況を何ら改善することなく、しかも、有権者の三分の一にも満たない支持で成立された安倍総理が、一昨年、「憲法九条の見直し」の必要性を高らかに宣言していました。
金融政策、株価引き上げなど、「 経済の成長戦略」には一定の賛意を示しても、国家安全保障のあり方、憲法改定の是非問題について、国民の絶対多数が安倍政権に『 丸投げしている訳ではない』ことは誰の目にも明らかなはずですが・・・。
昨年初め頃、憲法改正のための条件整備のために、「 憲法96条」の見直し問題が安倍総理から強行に提起されてきていました。これについては、多くの憲法学者、新聞・テレビ党のメディア、そして野党の反論、国民世論の激しい批判があり、与党内においてもその「政治手法」に問題ありとする意見が湧きあがりました。憲法の改定条件を一般法律の要件の過半数と同じに改めようという、政府及び国会議員の考え方をどう見ればよいのか・・・。
憲法99条には、「 天皇及び国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員は、この憲法を尊重し、擁護する義務を負う」とあります。
「 民意と国会」・「 民意と政府」の関係が 民主政治の原則から程遠いところにありながら、「 憲法改正問題」に着手しどころではない、と考えるのが相当であると思われるのですが・・・。
多くの国民を傍観者にさせておいて、なんらその責任を恥じないような政治家が早々と声高に叫ぶことではないでしょう。
現内閣が50%の支持率を越えているとしても、安倍総理がそっくりそのまま国民から50%の支持をされていると考えるなど、とんでもない錯覚でしょう。
※ ≪ リップマン( 米国報道界の長老)は言う。「 責任を持つ特別階級は、実行者としての機能を果たす。公益ということを理解し、じっくり考えて計画するのだ。その一方に、”とまどえる群れ”がいる訳だが、民主主義社会における彼らの役割は『観客』になることであって、行動に参加することではない。彼らが自分たちの問題の解決に参加しようとすれば、面倒を引き起こすだけだ。そこで、”とまどえる群れ”を飼いならすための何かが必要となる。それが新しい民主主義の技法、つまり『合意のデッチあげ』である。政治を動かす意思決定者は、そうした『デッチあげ』にある程度の現実性を持たせなければならない。と同時に、彼らがほどほどに ”信じ込むようにする”ことも必要だ。と≫
( 『 メディアコントロール』:チョムスキー著P15~40P)
国民の憲法学習が未だ十分ではないとしても、悲惨な戦争の体験・歴史の反省から、「 非核三原則の遵守」、「 武器輸出の禁止」、「 海外派兵の禁止」は国民の圧倒的な願いであることに間違いはないのです。
「 東アジアをめぐる状況」がどのようなものであろうとも、再び「 海外での軍事行動」はあってはならない、「 反戦・平和の願い」は劣化させてはならないと、国民の多くは考えているのです。
過去の忌まわしい戦争の経験から、これまでの大手の各紙世論調査から、60%以上の国民が「 国防軍設置」、「 海外派兵の認可」に対して反対の意思表明であることが明らかになっています。
日本国憲法は世界に誇る憲法であり、その「平和憲法の尊重」こそ、現天皇だけでなく前天皇の「 切なる願い」であったのです。このことは疑うべくもありません。
将来日本を背負って立つ子供たちのために、「 国のあるへき姿」について、大人も子供も参加できる国民総参加の「 憲法論議」を盛んにしなければなりません。政府のメディアコントロール( 情報操作)によって世論の多数派工作をしたり、国民に憲法問題を十分論議させることなく、政府が独善的に「 憲法改正発議」をすることは許されることではありません。
憲法は国民のためのものであって、国会議員、司法の役人、政府官僚のためのものではありません。「主権は国民にある」のであって、” 政府主権” でも” 国会主権” でもありません。「 憲法の見直し」の最終的な権限は国民にあるのです。
( 昨年末の特定秘密保護法案の国会審議の進め方を忘れてはなりません。)
≪ ラスウェル(米国政治学者)は言う。「 我々は大衆に誤まった判断に基づいて行動する機会を持たせてはならない。したがって、『 組織宣伝のテクニック』への方向転換をしなければならない。それは、民主主義社会にとって、全体主義社会の ” 棍棒”と同じ機能を持つものである 」と。≫
≪ 彼らを常に怯えさせておくことも必要だ。自分達を破懐しにやってくる内外の様々な悪魔を適度に恐れ怯えていないと、彼らは自分の頭で考え始めてしまうかも知れない。それは大変危険なことだ。したがって、彼らの関心をそらし、社会の動きから切り離しておくことが重要である。大衆はテレビの前にぽつねんと座って、頭にメッセージを叩き込まれていればよいのだ。と。≫ ( 前掲書:P15~40 )
私たちは、国会の多数派を成立させる「 国民の多数意思」が常に正しいとは限らないということも、歴史から学ぶべきでしょう。
熱狂的に戦争を支持した戦前の日本国民も、大量破壊兵器があるという情報を信じブッシユ大統領を支持したアメリカ国民も、不正確な情報に踊らされ、ムードに流され、目先のことしか見えなくなり、冷静で正しい判断ができなかったという大きな過ちを犯してしまいました。
ナチスドイツにその例を見るだけではなく、現代の私たちの社会には常にそのような「 危険が潜んでいる」と見なさなければなりません。
私たちは、それを避けるためには、「 多数意思に基づく行動」に対して、前もって「 歯止めをかける仕組み」を用意しておかねばならないのです。
あらゆる集団において、「 多数意思は常に正しい」と錯覚してしまいがちであるが、その「 人間の陥り易い過ち」を少なくするためには、多数決で決めても良い事もあるけれども、「 多数決で安易に決めてはいけない事もある」ということを、国民の総意で了解し合うことが必要となるのではないでしょうか。
つまり、その時々に「 民主的に成立したかのように見える国家権力」でさえ制限されるべきであるという、「 立憲主義の思想」が大切にされねばならないと思います。
( 憲法97条:この憲法が保障する基本的人権は、将来の国民に対して永久の権利として信託されたもの・・・」、98条:「 この憲法は国の最高法規であり、・・・」、99条:「・・・、国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と記され、その改正発議に対しては極めて厳しい制限がかけられています。(憲法96条)
日本国憲法は、英国、仏国、米国など「 立憲主義国の憲法」の思想を引き継いでいます。そこでは、「 個人の尊重」を基本的な価値とし、一人ひとりの個人の幸せを守るために、「市民の契約」によって「 政府」が組織された、と考えられています。
この考えは、この契約による政府が正しく機能しない時、市民は「 政権の契約違反」を正していく権利( 請願権)や、政府の行政執行に「 抵抗する権利」をもっている、という考え方です。この契約にあたるものが憲法であり、この仕組みこそが「 立憲主義」と言われるものです。
経済は一流でも、政治は世界の三流であると揶揄されることの意味は何なのか。こんな日本にしてしまった責任はどこにあるのか。
現在の日本の、立法、司法、行政等、全ての公的立場にある者はもとより、新聞・雑誌、テレビ等のメディアに関わる者の責任は大きいと言わねばなりません。
しかし、政治家、官僚役人、メディアの責任ばかり追及ばかりしている場合ではないのです。
国民一人ひとりが真摯に社会・政治に向き合い、「憲法問題」を自分の問題として引き寄せ、自ら学び行動することが求められているのです。
世界に誇る素晴らしい「平和憲法」を持つ日本人は、
世界の平和に貢献することが世界から期待されているのです。
この憲法を真に国民のものとするには、国民の自覚によるしかないのです。
※ 資料 「 中央紙、地方紙多数」、「 チョムスキー著:『 メディアコントロール』」、「 後藤光男著:『 憲法』」、「 伊藤 真著:『 憲法は誰のもの』
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大学と各種の専門学校で、法律学、哲学、社会学、家族社会学、家族福祉論、初等社会、公民授業研究、論理的思考などの科目を担当しています。
KJ法、マインド・マップ、ロールプレイングなどの技法を取り入れ、映画なども教材として活用しながら、学生と教員が相互に学び合うという参画型の授業を実践しています。現在の研究テーマの中心は、法教育です。
私は命ある限り、人間を不幸にする悪と闘い抜く覚悟です。111歳までは、仕事をしようと決意しています。