津村信一氏による大江戸仏教瓦版の続きを掲載致します。
記
日蓮聖人の曼荼羅は法本尊です。阿弥陀仏や観音菩薩と違って、人を本尊として礼拝する〃人本尊〃ではない。人本尊は阿弥陀仏にしても薬師如来にしても、寿命があります。真言宗の曼荼羅には胎蔵界と金剛界の二種類の曼荼羅がありますが、どれも仏・菩薩・明王等の絵曼荼羅だから、人本尊です。重力や斥力といった永続する法則が具わっていないから、永遠ではない。彼等の説く時間も空間も限定的です。
「つまり寿命のある人本尊に、永遠の時間と空間を託すことはできないわけですか」
ーーそうです。十字架上のイエス像に十戒全てを刻むことはできないでしょう。しかも彼は十字架刑のさなか、ユダヤ人大衆から『もしお前が神の子なら、十字架を外して下りてこい。それなら信じてやる』と言われた。しかしイエスは『エリ、エリ、レマ、サバクタニ(我が神よ、どうして私を見捨てられたのか)』と言って死んでしまった。つまり彼自身が説く神には、時間も空間も超えることができなかった。そんな人本尊に自分の死後の生命が救えますか。それに帰依して自分の全身全霊を託していいものでしょうか。よく考えてください。
「この世の境を超えてあの世に赴くとき、どんな者が自分を待っているんでしょうかね」
ーー今は末法だから、人本尊では全く救えない。日蓮聖人はそれがよく分かったから、仏像や菩薩像は一切造らなかった。
「弟子や信徒が釈迦如来像や法華経の四菩薩像を造りましたが」
ーーそれは方便として認めたわけです。聖人在世当時は念仏全盛期でしたから、多くの人が阿弥陀像を造り、その脇侍の観音や勢至などの菩薩像も造っていた。そういう世の雰囲気に抗して釈迦如来や法華経の四菩薩の像を造像するのは、なかなか殊勝な心がけであると思った。だからいちおう承認したのです。
さて、法というのは真理・存在の他に、法則の義があります。我々人間が生活するには、どうしても法則、つまり法が必要になります。
例えば『人は右、車は左』というものがあります。なぜそんな決まり事を定めるんでしょうか。
「そりゃあお互い事故なく、安全に道路を歩くためでしょう。公共の安定に絶対必要です」
ーーそうです。法は人を守るために存在するのです。でも酔っ払いが缶ビール片手に、人は右、車は左なんて誰が決めたんだ。しゃらくさい。俺が法律だ、俺が憲法だ、胡散臭いものは俺に通用せんとばかりふらふら左を歩いたら、どうなります。車に跳ね飛ばされるでしょう。ひき逃げされ、死んでしまうかもしれない。では、それはいったい誰が悪いんでしょうか。もちろんひき逃げ犯が悪いに決まってる。しかし酔っ払って気が大きくなり、ふらふら左を歩く人は悪くないのでしょうか。
「もちろん悪いに決まってますよ」
ーーだからそれが悩乱している証拠ですよ。その結果として頭破作七分、つまりひき逃げされたということです。要するに悩乱して物事の道理と非道理が分からなくなっている。だからふらふら左をさまよい歩き、自分の不利益を招いてしまう。そして不幸になるわけです。
つづく
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