「永遠の命と思って夢を持ち、今日限りの命と思って生きるんだ。」
昨夜遅く、テレビのニュース速報で、韓国のソウルの繁華街で転倒事故が起きたことを知りました。本当に、何が起きるか分からないものだと痛感致しました。
本日午後7時のNHKのニュースでは、153人もの方々が亡くなり、133人がケガをされたと報道されました。
お亡くなりになられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
ご家族ご友人の皆様には、衷心よりお悔やみ申し上げます。
ケガをされた方々のご回復をお祈り致します。
本日午後7時のNHKのニュースでは、153人もの方々が亡くなり、133人がケガをされたと報道されました。
お亡くなりになられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
ご家族ご友人の皆様には、衷心よりお悔やみ申し上げます。
ケガをされた方々のご回復をお祈り致します。
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» k22016【SNS中傷問題】「笑ってる場合じゃないですよ!」 杉田水脈総務大臣政務官は“説明拒否
【SNS中傷問題】「笑ってる場合じゃないですよ!」 杉田水脈総務大臣政務官は“説明拒否
SNSで女性ジャーナリストを中傷した問題で11/1も国会での説明を拒否しました。
立憲民主・塩村あやか議員:「笑ってる場合じゃないですよ!政務官!」 塩村議員が一喝した相手は、杉田水脈総務大臣政務官。
レイプ被害に遭った女性ジャーナリストを誹謗(ひぼう)中傷するネットの書き込みに「いいね」を押したとして、東京高裁に賠償命令を受けています。
立憲民主・塩村あやか議員:「性被害者に対して『枕営業の失敗ですね』(との投稿)に『いいね』したり、
『レイプをされたと虚言を吐き始めたのです』、こうした投稿にも『いいね』をしている。間違いないですね、政務官」
総務省・杉田水脈政務官:「この件については高裁判決を受けて、ただいま検討中ですので、答弁を差し控えさせて頂きたいと思います」
この後、この件について何をどう聞かれても…。
立憲民主・塩村あやか議員:「いいねを押したのか、事実を聞いている」
総務省・杉田水脈政務官:「答弁を差し控えさせて頂きます」「差し控えさせて頂きたいと思います」「答弁を差し控えさせて頂きたいと思います」「いずれに致しましても答弁は差し控えさせて頂きたいと思います」
立憲民主・塩村あやか議員:「裁判の関係であれば国会で答えてはいけないのか?」
総務省・杉田水脈政務官:「個人的な裁判のことについての答弁は差し控えさせて頂きたいと思います」
杉田氏が政務官を務める総務省は、省を挙げて、SNSにおける誹謗中傷対策に取り組んでいるところです。
ところが…。
立憲民主・源馬謙太郎議員:「『#No Heart No SNS』ってご存じですか?」
総務省・杉田水脈政務官:「申し訳ございません。存じ上げません」 キャンペーンの存在を、杉田政務官は知りませんでした。
立憲民主・塩村あやか議員:「そもそも、総務大臣政務官ですよね。ネットでの誹謗中傷に対しては厳しく『おかしい』と言わないといけない立場ではないか?せめて政務官の仕事は辞するべきでは?」
総務省・杉田水脈政務官:「これからもしっかりと総務大臣政務官としての職責を全うしたいと思います」
立憲民主・塩村あやか議員:「国民にネットでの誹謗中傷をやめるようにお願いできる立場にあるのか?」
総務省・杉田水脈政務官:「私自身、ネットでの誹謗中傷を受けることもあり、そういったことはあってはならないことだと思っています。総務省の一員としてしっかりと取り組みを進めて参りたい」
岸田総理は、なぜ彼女を総務省の政務官に据えたのでしょうか。
立憲民主・塩村あやか議員:「誰の判断での任命か?」
松野官房長官:「杉田政務官の過去の発言については、政治家としての自らの責任において、丁寧に説明することが重要であると…」
立憲民主・塩村あやか議員:「説明せずに逃げ回っている。聞いても聞いても答えない。丁寧に説明・答弁できない人が政務官である。誰の判断で任命したのか?」
再度聞いても、任命責任を明らかにする答弁はありませんでした。
SNSで女性ジャーナリストを中傷した問題で11/1も国会での説明を拒否しました。
立憲民主・塩村あやか議員:「笑ってる場合じゃないですよ!政務官!」 塩村議員が一喝した相手は、杉田水脈総務大臣政務官。
レイプ被害に遭った女性ジャーナリストを誹謗(ひぼう)中傷するネットの書き込みに「いいね」を押したとして、東京高裁に賠償命令を受けています。
立憲民主・塩村あやか議員:「性被害者に対して『枕営業の失敗ですね』(との投稿)に『いいね』したり、
『レイプをされたと虚言を吐き始めたのです』、こうした投稿にも『いいね』をしている。間違いないですね、政務官」
総務省・杉田水脈政務官:「この件については高裁判決を受けて、ただいま検討中ですので、答弁を差し控えさせて頂きたいと思います」
この後、この件について何をどう聞かれても…。
立憲民主・塩村あやか議員:「いいねを押したのか、事実を聞いている」
総務省・杉田水脈政務官:「答弁を差し控えさせて頂きます」「差し控えさせて頂きたいと思います」「答弁を差し控えさせて頂きたいと思います」「いずれに致しましても答弁は差し控えさせて頂きたいと思います」
立憲民主・塩村あやか議員:「裁判の関係であれば国会で答えてはいけないのか?」
総務省・杉田水脈政務官:「個人的な裁判のことについての答弁は差し控えさせて頂きたいと思います」
杉田氏が政務官を務める総務省は、省を挙げて、SNSにおける誹謗中傷対策に取り組んでいるところです。
ところが…。
立憲民主・源馬謙太郎議員:「『#No Heart No SNS』ってご存じですか?」
総務省・杉田水脈政務官:「申し訳ございません。存じ上げません」 キャンペーンの存在を、杉田政務官は知りませんでした。
立憲民主・塩村あやか議員:「そもそも、総務大臣政務官ですよね。ネットでの誹謗中傷に対しては厳しく『おかしい』と言わないといけない立場ではないか?せめて政務官の仕事は辞するべきでは?」
総務省・杉田水脈政務官:「これからもしっかりと総務大臣政務官としての職責を全うしたいと思います」
立憲民主・塩村あやか議員:「国民にネットでの誹謗中傷をやめるようにお願いできる立場にあるのか?」
総務省・杉田水脈政務官:「私自身、ネットでの誹謗中傷を受けることもあり、そういったことはあってはならないことだと思っています。総務省の一員としてしっかりと取り組みを進めて参りたい」
岸田総理は、なぜ彼女を総務省の政務官に据えたのでしょうか。
立憲民主・塩村あやか議員:「誰の判断での任命か?」
松野官房長官:「杉田政務官の過去の発言については、政治家としての自らの責任において、丁寧に説明することが重要であると…」
立憲民主・塩村あやか議員:「説明せずに逃げ回っている。聞いても聞いても答えない。丁寧に説明・答弁できない人が政務官である。誰の判断で任命したのか?」
再度聞いても、任命責任を明らかにする答弁はありませんでした。
» k22017「戒壇大御本尊は生身の日蓮大聖人」
「戒壇大御本尊は生身の日蓮大聖人」
法華講員ならば、いや日興門流の僧俗であれば誰しも当然のように分かっていることなんだがどうも最近の創価民にはよく理解できないらしい。日頃から「生命は永遠だ」とか生命について偉そうに能書きをたてれいる割には「生身」ときくと、「生物学的に生存している状態」であることだとパンピーと変わらない解釈をする創価民も多く「戒壇大御本尊を生身の大聖人」と思えないらしい。どうやら一念三千から勉強しなおさなければいけないくらいに今の創価の教学力は低下しているようだ。そんな教学力のない創価民達に草木成仏の法義を聞かせた所で犬が星を見ているようなもので理解できないだろう。理解できていたら「塔婆不要」とか「塔婆は坊主の金儲け」などという発想にはならないからね。なので今日は草木成仏の話は置いておき別の角度から話をする。大聖人の仏法の信仰者は当然のことだが日蓮大聖人をご本仏と信じる人達だ。そのご本仏が住む本国土とはどこか?というと創価民もいつも読んでいるかもしれない寿量品の自我偈に【常住此説法】とあるようにこの娑婆世界がご本仏の住む国土である。よって日蓮大聖人はご本仏(久遠元初自受用報身如来)として久遠元初以来常にこの娑婆世界にずっと存在しているわけだ。そして末法鎌倉時代に人間の姿(日蓮大聖人)で顕れ末法の法体を末法万年の衆生の為に顕され涅槃されるがこれは【方便現涅槃】つまり方便として涅槃する姿を顕しただけで実は死んではいない。いや寧ろ人間の姿をして生まれた来た方が「方便」と言えるだろう。仏身とは法・報・応の三身だが大聖人は三身即一身の仏身である。このうちの応身というのは何も人間の生身(なまみ)に限定されるわけでない。それが草木であっても応身という。何故なら応身とか仮の姿だからだ。さてそこでもしも人間の日蓮大聖人がご入滅して魂が宇宙に遍満してしまったら応身としての仏身が
現わていないいなのだから、一身即二身にしかならず、無作三身しから無作二身になってしまう。また【常住此説法】の言葉は妄語となってしまう。そんなことは大聖人の仏法においてはあり得ない。大聖人はご入滅後も無作三身のご本仏としてこの娑婆世界に厳として存在している。そう信じるのが大聖人の仏法の信仰者だ。では一体それは具多的に何処に存在しているのか?という話になるが、基本的には大聖人の認められたご本尊いづれかが生身の大聖人の体ということになる。書写本尊は大聖人のご入滅とのタイムラグがあるので「生身の大聖人」にはなりえない。つまり創価本部の本尊は「生身の大聖人」ではない。では大聖人のご真筆のいづれが「生身の大聖人」であるかと言えば、前回記事に書いたように弘安二年ご建立の戒壇大御本尊以外にないのである。
▶戒壇大御本尊が唯一無二な理由
前回記事に書いたように戒壇大御本尊が「生身の日蓮大聖人である」という理由はたくさんある。自余の真筆のご本尊も検討してしてみたが戒壇大御本尊を差し置いて「生身の大聖人である本尊」である理由が全く見つからない。「生身の大聖人」たるご本尊は戒壇大御本尊以外に考えられないのだ。これは先に結論ありきではなく何年も自分で思索した結果だ。「戒壇大御本尊は常住此説法の生身の日蓮大聖人」それ以外に他に「生身の大聖人」は存在しない。「生身の大聖人」は一人しかいないのである。その生身の大聖人たる戒壇大御本尊を捨てるということは大聖人を捨てるということなのである。大聖人を捨てた人間が大聖人の認めたご本尊と同じ図柄の本尊を持っていようと何の意味もないし、大聖人を捨てた人間が南無妙法蓮華経の題目を唱えた所で悪業を積むだけの行為にしかならない。もしも「戒壇大御本尊」が「生身の大聖人」ではないというなら、三身即一身の仏身で常住此説法のご本仏は具体的にこの娑婆世界のどこにどんな応身如来としての姿で存在しているのかハッキリと示してから言うべきだろう。また全ての本尊が「生身の大聖人」というならキチンとその論拠を示さなければそれは単なる願望・妄想の類だ。一般会員さんは是非地元の幹部にそれを尋ねて欲しい。もしも創価幹部が具体的にそれを示せないのなら戒壇大御本尊を受持しなくても幸福になれるなどといういうのは無責任な与太話だ。無責任な創価の幹部・活動家のウソ仏法話を信じて創価信仰を続けることに何の意味があるのか考えてくださいな。
法華講員ならば、いや日興門流の僧俗であれば誰しも当然のように分かっていることなんだがどうも最近の創価民にはよく理解できないらしい。日頃から「生命は永遠だ」とか生命について偉そうに能書きをたてれいる割には「生身」ときくと、「生物学的に生存している状態」であることだとパンピーと変わらない解釈をする創価民も多く「戒壇大御本尊を生身の大聖人」と思えないらしい。どうやら一念三千から勉強しなおさなければいけないくらいに今の創価の教学力は低下しているようだ。そんな教学力のない創価民達に草木成仏の法義を聞かせた所で犬が星を見ているようなもので理解できないだろう。理解できていたら「塔婆不要」とか「塔婆は坊主の金儲け」などという発想にはならないからね。なので今日は草木成仏の話は置いておき別の角度から話をする。大聖人の仏法の信仰者は当然のことだが日蓮大聖人をご本仏と信じる人達だ。そのご本仏が住む本国土とはどこか?というと創価民もいつも読んでいるかもしれない寿量品の自我偈に【常住此説法】とあるようにこの娑婆世界がご本仏の住む国土である。よって日蓮大聖人はご本仏(久遠元初自受用報身如来)として久遠元初以来常にこの娑婆世界にずっと存在しているわけだ。そして末法鎌倉時代に人間の姿(日蓮大聖人)で顕れ末法の法体を末法万年の衆生の為に顕され涅槃されるがこれは【方便現涅槃】つまり方便として涅槃する姿を顕しただけで実は死んではいない。いや寧ろ人間の姿をして生まれた来た方が「方便」と言えるだろう。仏身とは法・報・応の三身だが大聖人は三身即一身の仏身である。このうちの応身というのは何も人間の生身(なまみ)に限定されるわけでない。それが草木であっても応身という。何故なら応身とか仮の姿だからだ。さてそこでもしも人間の日蓮大聖人がご入滅して魂が宇宙に遍満してしまったら応身としての仏身が
現わていないいなのだから、一身即二身にしかならず、無作三身しから無作二身になってしまう。また【常住此説法】の言葉は妄語となってしまう。そんなことは大聖人の仏法においてはあり得ない。大聖人はご入滅後も無作三身のご本仏としてこの娑婆世界に厳として存在している。そう信じるのが大聖人の仏法の信仰者だ。では一体それは具多的に何処に存在しているのか?という話になるが、基本的には大聖人の認められたご本尊いづれかが生身の大聖人の体ということになる。書写本尊は大聖人のご入滅とのタイムラグがあるので「生身の大聖人」にはなりえない。つまり創価本部の本尊は「生身の大聖人」ではない。では大聖人のご真筆のいづれが「生身の大聖人」であるかと言えば、前回記事に書いたように弘安二年ご建立の戒壇大御本尊以外にないのである。
▶戒壇大御本尊が唯一無二な理由
前回記事に書いたように戒壇大御本尊が「生身の日蓮大聖人である」という理由はたくさんある。自余の真筆のご本尊も検討してしてみたが戒壇大御本尊を差し置いて「生身の大聖人である本尊」である理由が全く見つからない。「生身の大聖人」たるご本尊は戒壇大御本尊以外に考えられないのだ。これは先に結論ありきではなく何年も自分で思索した結果だ。「戒壇大御本尊は常住此説法の生身の日蓮大聖人」それ以外に他に「生身の大聖人」は存在しない。「生身の大聖人」は一人しかいないのである。その生身の大聖人たる戒壇大御本尊を捨てるということは大聖人を捨てるということなのである。大聖人を捨てた人間が大聖人の認めたご本尊と同じ図柄の本尊を持っていようと何の意味もないし、大聖人を捨てた人間が南無妙法蓮華経の題目を唱えた所で悪業を積むだけの行為にしかならない。もしも「戒壇大御本尊」が「生身の大聖人」ではないというなら、三身即一身の仏身で常住此説法のご本仏は具体的にこの娑婆世界のどこにどんな応身如来としての姿で存在しているのかハッキリと示してから言うべきだろう。また全ての本尊が「生身の大聖人」というならキチンとその論拠を示さなければそれは単なる願望・妄想の類だ。一般会員さんは是非地元の幹部にそれを尋ねて欲しい。もしも創価幹部が具体的にそれを示せないのなら戒壇大御本尊を受持しなくても幸福になれるなどといういうのは無責任な与太話だ。無責任な創価の幹部・活動家のウソ仏法話を信じて創価信仰を続けることに何の意味があるのか考えてくださいな。
» k22018【大御本尊という法体は永遠】でありそれゆえに血脈もまた断絶などしません。
先日の学会員TS氏との対話の内容を法華講員さんの創価民との対論や折伏、また創価インチキ教学や無教学幹部に上手く騙されている現役学会員の参考にしえもらえればと思いここに【まとめ】として書いておきます。いろいろと話が取っ散らかっていましたが、TS氏の主張としては①戒壇大御本尊は物体であるから消滅する②唯受一人血脈も断絶する可能がある。つまり戒壇大御本尊も血脈相承も永遠でないのだから絶対ではない。よって戒壇大御本尊も血脈相承も絶対的な信仰の対象にならない。という主張です。一見正当性のあるような事を言っているように聞こえますがこの主張は仏法を全く理解できていない無信心の人間の考えであり大聖人仏法を否定する邪教の徒の考えです。確かに大御本尊を「物体」として捉えればその通りですが大御本尊を物体としてとらえている時点で大聖人の仏法ではありません。そんな大聖人仏法を知らない人間が「大御本尊のことなど御書に書いていない」などと御書を持ち出すすとは滑稽であり噴飯モノです。不信謗法で曇った創価民の目には大御本尊の事が御書に書いていないと見えるのです。大聖人仏法の根本も分からない人がどうして御書を理解できるのか?御書の文証の提示を要求するよりも前にもっと基本的な事を知りなさいというわけです。御書を引用したところで全く理解できないのだから(笑)さてTS氏は①②と質問を分けていますが実はコレは全く同じ質問なのです。大御本尊も血脈相承もどちらも【法体】の話です。本尊や血脈に事を寄せていますが仏法上の解釈においてはTS氏の質問は【法体は永遠か否か】という話です。答えは【永遠である】です。仮に物体としての大御本尊が消滅することがあろうとも【大御本尊という法体は永遠】でありそれゆえに血脈もまた断絶などしません。ですから私はこういう質問を「くだらない」と言うのです。こういうくだらない質問をしてくる創価民は無宗教者と同等のレベルで基礎教学すらないと断じておきます。法華講員さんに気を付けて欲しいのはこの手のヤカラと出会ったときは【大御本尊は無くならない】とむきになって反論しない事です。そのように反論すれば創価民はいい気になって「楠木が永遠に朽ち果てないという法華講員はオカルトだ」と行ってきますからね。まず最初に仏法者として【大御本尊とは法体である】ことを相手がTS氏のように理解できなくても教えてあげてください。さて、法体である御本尊の正体とは何かというと、御義口伝の「建立御本尊等の事」に、
◆御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。
とちゃんと書かれています。「建立本尊はご本仏の一身(色心二法)である」と。つまり戒壇大御本尊は日蓮大聖人ですからご本仏なのです。このことは日寛上人の「観心本尊抄文段」のご指南にも書いてあります。
◇問う、妙法五字のその体何物ぞや。謂く、一念三千の本尊これなり。一念三千の本尊、その体何物ぞや。謂く、蓮祖聖人これなり。
「戒壇大御本尊はご本仏」これが大聖人仏法の基本です。この本仏は「常住此説法」と寿量品・自我偈の文に明らかなように「常にこの娑婆世界に在って説法している」のです。この文は仏の【本国土】を表しています。つまり仏の本国土はこの娑婆世界なのです。これが釈迦仏法そして大聖人仏法の基礎であり三世諸仏が証明した所です。「ご本仏の一身」である「戒壇大御本尊」は常にこの娑婆世界に住して法を説く存在なのです。ですからこのご本仏である戒壇大御本尊が消滅することはないのです。もしもそんな事が起きれば「常住此説法」の仏の説法は嘘ということになりそうであれば仏法を信仰する意味はなくなるのです。仏の説法を疑う人間に仏法者を名乗る資格はありません。これが理解できれば血脈断絶などという愚論もでないのです。なぜなら大聖人は「四恩抄」のなかで、
◆仏宝法宝は必ず僧によりて住す、譬えば薪なければ火無く大地無ければ草木生ずべからず、仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば正法像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず
と明確におしゃっています。【仏宝・法宝】とは人法一箇の大御本尊の事をですから、この大御本尊は【必ず僧によって住する】のです。大御本尊の内証の住する僧とは唯授一人血脈相承の日蓮正宗のご歴代上人以外にはいませんから、血脈が断絶すれば当然、戒壇大御本尊の法体も有名無実となり消滅します。そうなればこれまた「常住此説法」の説法は嘘になってしまいます。以上のように、戒壇大御本尊はいつかなくなる。とか血脈だって断絶する可能性がある。などといって正宗に疑難を吹っかけてくる学会員は釈迦の法華経を否定し大聖人を否定しさらには仏法を否定する大謗法の者であると言えます。さて、それに対しTS氏は、
▼相承の僧侶が絶えても、大聖人の民衆救済の心を持った信徒がいる限り、大聖人の仏法は絶えることはないというのが創価の精神です。
などと我見を言っていますが、引用の「四恩抄」に書かれているがごとく大聖人の仏法は【必ず僧によって住する】のであって凡夫の信徒によって住するのでないのです。そもそも「信徒」とは一体どこの信徒をいうのでしょうか。まさか創価学会員とでもいうのでしょうかね。で、その創価学会は永遠に存在するのですか?「創価学会がなくなったら大聖人仏法はなくなるのか?それとも創価学会は100%なくならないという証拠が有るのか?」と逆に聞いてみたものです(答えなく結構です)さらに
▼仏は民衆救済の凡夫の心に宿る、、、。
という完全に仏法を無視したこの発言。ならばもはや本尊もいらなければ修行もいらない(笑)それこそ御書のどこにこんなことが書いてあるのかお聞きしたいくらいです(答えなくて結構です)
というわけで簡単にTS氏との話をまとめましたので、彼のような学会員に遭遇したときの参考にしてください。
いずれにせよ最初に言いましたが【もしも大御本尊がなくなったら】【もしも相承する僧侶かいなくなったら】とかの【もしもシリーズ】を言ってくる学会員は例外なく教学がありません。また【大御本尊を科学鑑定しろ】とか【僧侶の妻帯は禁止だぁ】とかいってくる学会員も同様です。このような人達は教学で仏法の道理を教えてあげてもそういう人には理解できません。なのでそういう人の口車に乗って同レベルの話につられないように気をつけてください。彼らは「法門法義の話をされたくない」のです。だからこそ彼らの与太話のなど無視して相手が理解できなくてもこっちはちゃんと仏法の法門法義を語っていく事が大切だと思います。
◆御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。
とちゃんと書かれています。「建立本尊はご本仏の一身(色心二法)である」と。つまり戒壇大御本尊は日蓮大聖人ですからご本仏なのです。このことは日寛上人の「観心本尊抄文段」のご指南にも書いてあります。
◇問う、妙法五字のその体何物ぞや。謂く、一念三千の本尊これなり。一念三千の本尊、その体何物ぞや。謂く、蓮祖聖人これなり。
「戒壇大御本尊はご本仏」これが大聖人仏法の基本です。この本仏は「常住此説法」と寿量品・自我偈の文に明らかなように「常にこの娑婆世界に在って説法している」のです。この文は仏の【本国土】を表しています。つまり仏の本国土はこの娑婆世界なのです。これが釈迦仏法そして大聖人仏法の基礎であり三世諸仏が証明した所です。「ご本仏の一身」である「戒壇大御本尊」は常にこの娑婆世界に住して法を説く存在なのです。ですからこのご本仏である戒壇大御本尊が消滅することはないのです。もしもそんな事が起きれば「常住此説法」の仏の説法は嘘ということになりそうであれば仏法を信仰する意味はなくなるのです。仏の説法を疑う人間に仏法者を名乗る資格はありません。これが理解できれば血脈断絶などという愚論もでないのです。なぜなら大聖人は「四恩抄」のなかで、
◆仏宝法宝は必ず僧によりて住す、譬えば薪なければ火無く大地無ければ草木生ずべからず、仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば正法像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず
と明確におしゃっています。【仏宝・法宝】とは人法一箇の大御本尊の事をですから、この大御本尊は【必ず僧によって住する】のです。大御本尊の内証の住する僧とは唯授一人血脈相承の日蓮正宗のご歴代上人以外にはいませんから、血脈が断絶すれば当然、戒壇大御本尊の法体も有名無実となり消滅します。そうなればこれまた「常住此説法」の説法は嘘になってしまいます。以上のように、戒壇大御本尊はいつかなくなる。とか血脈だって断絶する可能性がある。などといって正宗に疑難を吹っかけてくる学会員は釈迦の法華経を否定し大聖人を否定しさらには仏法を否定する大謗法の者であると言えます。さて、それに対しTS氏は、
▼相承の僧侶が絶えても、大聖人の民衆救済の心を持った信徒がいる限り、大聖人の仏法は絶えることはないというのが創価の精神です。
などと我見を言っていますが、引用の「四恩抄」に書かれているがごとく大聖人の仏法は【必ず僧によって住する】のであって凡夫の信徒によって住するのでないのです。そもそも「信徒」とは一体どこの信徒をいうのでしょうか。まさか創価学会員とでもいうのでしょうかね。で、その創価学会は永遠に存在するのですか?「創価学会がなくなったら大聖人仏法はなくなるのか?それとも創価学会は100%なくならないという証拠が有るのか?」と逆に聞いてみたものです(答えなく結構です)さらに
▼仏は民衆救済の凡夫の心に宿る、、、。
という完全に仏法を無視したこの発言。ならばもはや本尊もいらなければ修行もいらない(笑)それこそ御書のどこにこんなことが書いてあるのかお聞きしたいくらいです(答えなくて結構です)
というわけで簡単にTS氏との話をまとめましたので、彼のような学会員に遭遇したときの参考にしてください。
いずれにせよ最初に言いましたが【もしも大御本尊がなくなったら】【もしも相承する僧侶かいなくなったら】とかの【もしもシリーズ】を言ってくる学会員は例外なく教学がありません。また【大御本尊を科学鑑定しろ】とか【僧侶の妻帯は禁止だぁ】とかいってくる学会員も同様です。このような人達は教学で仏法の道理を教えてあげてもそういう人には理解できません。なのでそういう人の口車に乗って同レベルの話につられないように気をつけてください。彼らは「法門法義の話をされたくない」のです。だからこそ彼らの与太話のなど無視して相手が理解できなくてもこっちはちゃんと仏法の法門法義を語っていく事が大切だと思います。
» k22019「なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊を拝まなくては、本物の信心にはなれない。」
コスモさんからのコメントで大石寺への参詣の意義への感想を求められたので今日はそれにお答えしつつ登山の意義について書きます。まずはコスモさんの月に一度の登山には本当に頭が下がります。私も年々登山の回数は増えていますがまだその域には達していないのでこれから精進していきたいと思います。さてコスモさんは登山に意義について、
■自宅の義の本門戒壇に安置された「日蓮正宗の寺院で下付されたご本尊」への祈りは、日蓮正宗総本山大石寺にある事の本門戒壇の大御本尊への祈りとなって初めて祈りが叶います。だから、大石寺に参詣しない創価学会員の「日蓮正宗の寺院で下付されたご本尊」への祈りでも、叶わないのです
との意見には賛同します。そもそも論を言えば私達が下付いただいている御本尊の多くは「御形木本尊」だと思いますが「御形木本尊」というのは厳密にいうとまだ信心が定まっていない状態の信徒に与えられる「仮の本尊」なのです。正式な御本尊とは「常住御本尊」であって「御形木本尊」はその前段階の本尊です。ですからコスモさんの言う通り戒壇の大御本尊への信がなければ自宅の御形木本尊への祈りは叶いません。仮の本尊である御形木本尊に大聖人の御悟りの血脈を通わせるのは大御本尊への信以外にはありません。逆に言えば戒壇大御本尊への信はあれば仮の本尊である御形木本尊にも仏力・法力が流れるわけです。また「常住本尊」でもあっても池田大作や創価のように根源の戒壇大御本尊を不敬し退転してしまえばそこに仏力・法力は通ってこないので祈りは叶いません。登山というのはその根本の戒壇大御本尊=日蓮大聖人にお目通りすることです。そしてそれは「一心欲見仏・不自惜身命」の信心なのです。大聖人御在世時代の阿仏房や日妙聖人。また江戸時代の金沢信徒による有名な「抜け参り」など全て「一心欲見仏・不自惜身命」の信心で大石寺に登山したわけです。御書には
◆寿量品の自我偈に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり(義浄房御書)
と書かれていて、この御文の意は「一心欲見仏・不自惜身命」の信心によって御本尊は現れるということで「一心欲見仏・不自惜身命」の信心がなければ事の一念三千の御本尊は現れません。この「一心欲見仏・不自惜身命」の信心の行体が登山です。故に
◆此の砌に望まん輩は無始の罪障忽に消滅し三業の悪転じて三徳を成ぜん(南条殿御返事)
と、登山することにより、謗法罪障消滅・信心倍増・一切無障礙の大功徳を得ることができます。しかもそれらを法主上人猊下が直々に戒壇大御本尊に申し上げてくださるのです。しかるに創価は戒壇大御本尊(日蓮大聖人)のおわします大石寺を「謗法の地」などと言って誹謗し登山を否定しますが、
◆教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所・喉は誕生の処・口中は正覚の砌なるべし、かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり(南条殿御返事)
◆本有の霊山とは此の裟婆世界なり、中にも日本国なり、法華経の本国土妙・裟婆世界なり、本門寿量品の未曾有の大曼荼羅建立の在所なり(御講聞書)
との御聖訓に照らせば大聖人(戒壇大御本尊)がおわします場所は謗法の地どころか霊山浄土です。創価の「謗法の地」理論は全く本末転倒なのです。そもそも謗法の地にある御本尊を受持しないというのであれば日本国は全て謗法の地ですから学会本部の本尊も受持するに値しないという事になりますし学会員の自宅だって謗法の地です。霊山浄土と大聖人が言われた戒壇大御本尊がおわします大石寺を「謗法の地」などとということ自体が大聖人を否定する大謗法といえます。
◆須弥山に近づく鳥は金色となるなり(九郎太郎殿御返事)
距離や健康状態・仕事の関係など物理的な面で、また経済的な面でなかなか登山をするのが難しい方もいるとは思いますが、「一心欲見仏・不自惜身命」の信心を貫けば必ず大石寺に登山し大御本尊様にお目通りが叶う日は来ます。私はもう少し登山しろよ!と自分を叱咤激励していきたいと思います。読者の皆様と霊山浄土である大石寺でお会いできるときを楽しみにしています。最後に、創価学会員の皆さんには戸田2代会長の有名な指導を贈ります。
●「なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊を拝まなくては、本物の信心にはなれない。」(昭和27年8月5日・夏期講習会)
いつまでも「ニセモノの信心」をしていないで、戸田会長の指導の許信心の正道に戻ってきてください。
■自宅の義の本門戒壇に安置された「日蓮正宗の寺院で下付されたご本尊」への祈りは、日蓮正宗総本山大石寺にある事の本門戒壇の大御本尊への祈りとなって初めて祈りが叶います。だから、大石寺に参詣しない創価学会員の「日蓮正宗の寺院で下付されたご本尊」への祈りでも、叶わないのです
との意見には賛同します。そもそも論を言えば私達が下付いただいている御本尊の多くは「御形木本尊」だと思いますが「御形木本尊」というのは厳密にいうとまだ信心が定まっていない状態の信徒に与えられる「仮の本尊」なのです。正式な御本尊とは「常住御本尊」であって「御形木本尊」はその前段階の本尊です。ですからコスモさんの言う通り戒壇の大御本尊への信がなければ自宅の御形木本尊への祈りは叶いません。仮の本尊である御形木本尊に大聖人の御悟りの血脈を通わせるのは大御本尊への信以外にはありません。逆に言えば戒壇大御本尊への信はあれば仮の本尊である御形木本尊にも仏力・法力が流れるわけです。また「常住本尊」でもあっても池田大作や創価のように根源の戒壇大御本尊を不敬し退転してしまえばそこに仏力・法力は通ってこないので祈りは叶いません。登山というのはその根本の戒壇大御本尊=日蓮大聖人にお目通りすることです。そしてそれは「一心欲見仏・不自惜身命」の信心なのです。大聖人御在世時代の阿仏房や日妙聖人。また江戸時代の金沢信徒による有名な「抜け参り」など全て「一心欲見仏・不自惜身命」の信心で大石寺に登山したわけです。御書には
◆寿量品の自我偈に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり(義浄房御書)
と書かれていて、この御文の意は「一心欲見仏・不自惜身命」の信心によって御本尊は現れるということで「一心欲見仏・不自惜身命」の信心がなければ事の一念三千の御本尊は現れません。この「一心欲見仏・不自惜身命」の信心の行体が登山です。故に
◆此の砌に望まん輩は無始の罪障忽に消滅し三業の悪転じて三徳を成ぜん(南条殿御返事)
と、登山することにより、謗法罪障消滅・信心倍増・一切無障礙の大功徳を得ることができます。しかもそれらを法主上人猊下が直々に戒壇大御本尊に申し上げてくださるのです。しかるに創価は戒壇大御本尊(日蓮大聖人)のおわします大石寺を「謗法の地」などと言って誹謗し登山を否定しますが、
◆教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所・喉は誕生の処・口中は正覚の砌なるべし、かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり(南条殿御返事)
◆本有の霊山とは此の裟婆世界なり、中にも日本国なり、法華経の本国土妙・裟婆世界なり、本門寿量品の未曾有の大曼荼羅建立の在所なり(御講聞書)
との御聖訓に照らせば大聖人(戒壇大御本尊)がおわします場所は謗法の地どころか霊山浄土です。創価の「謗法の地」理論は全く本末転倒なのです。そもそも謗法の地にある御本尊を受持しないというのであれば日本国は全て謗法の地ですから学会本部の本尊も受持するに値しないという事になりますし学会員の自宅だって謗法の地です。霊山浄土と大聖人が言われた戒壇大御本尊がおわします大石寺を「謗法の地」などとということ自体が大聖人を否定する大謗法といえます。
◆須弥山に近づく鳥は金色となるなり(九郎太郎殿御返事)
距離や健康状態・仕事の関係など物理的な面で、また経済的な面でなかなか登山をするのが難しい方もいるとは思いますが、「一心欲見仏・不自惜身命」の信心を貫けば必ず大石寺に登山し大御本尊様にお目通りが叶う日は来ます。私はもう少し登山しろよ!と自分を叱咤激励していきたいと思います。読者の皆様と霊山浄土である大石寺でお会いできるときを楽しみにしています。最後に、創価学会員の皆さんには戸田2代会長の有名な指導を贈ります。
●「なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊を拝まなくては、本物の信心にはなれない。」(昭和27年8月5日・夏期講習会)
いつまでも「ニセモノの信心」をしていないで、戸田会長の指導の許信心の正道に戻ってきてください。
» k22020「もはや喜劇。国民にとっては悲劇」
小沢一郎氏、自民党の山際大志郎氏の党役職就任に「もはや喜劇。国民にとっては悲劇」
立憲民主党の小沢一郎衆院議員は2日、自民党の山際大志郎・前経済再生担当相が自民党の新型コロナウイルス対策本部長に就任したことについて「もはや喜劇」と痛烈に皮肉った。
小沢氏は、山際氏の本部長就任の報道を引用し、
ツイッターに「もはや喜劇。しかし、国民にとっては悲劇。自民党は、反省したふりはしても、絶対に反省しない。
本音では、アッカンベーをしている。だから繰り返す。いつまでも、いつまでも。刮目しなければならない」と書き込んだ。
山際氏は岸田内閣の経済再生相としてコロナ対策も担当していたが、次々と明らかになる旧統一教会との関係をまともに説明できず、先月24日、岸田文雄首相に事実上の更迭をされたばかり。
関係者によると、辞任からほどなくして本部長就任が決まったというが、SNS上でも今回の自民党の人事対応に、「まだ役職を与えるのか」など、疑問の声が拡大している。
立憲民主党の小沢一郎衆院議員は2日、自民党の山際大志郎・前経済再生担当相が自民党の新型コロナウイルス対策本部長に就任したことについて「もはや喜劇」と痛烈に皮肉った。
小沢氏は、山際氏の本部長就任の報道を引用し、
ツイッターに「もはや喜劇。しかし、国民にとっては悲劇。自民党は、反省したふりはしても、絶対に反省しない。
本音では、アッカンベーをしている。だから繰り返す。いつまでも、いつまでも。刮目しなければならない」と書き込んだ。
山際氏は岸田内閣の経済再生相としてコロナ対策も担当していたが、次々と明らかになる旧統一教会との関係をまともに説明できず、先月24日、岸田文雄首相に事実上の更迭をされたばかり。
関係者によると、辞任からほどなくして本部長就任が決まったというが、SNS上でも今回の自民党の人事対応に、「まだ役職を与えるのか」など、疑問の声が拡大している。
» k22021弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。
譬えば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮び雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ、御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり、仏に成る道も此くの如し、我等は穢土に候へども心は霊山に住べし、御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ
今月の座談会御書は別名『雷門鼓御書』の一節です。当抄は夫の阿仏房を身延の大聖人の許に三度送り出した妻の千日尼の信心を称賛されてる一節です。この御文は顕正会・浅井がインチキ遥拝勤行を正当化する御文としても有名です。創価的には、「池田先生と直接会うことが大切なのではなく、師匠の心をわが心とする師弟不二の云々」という男子部的な講義か、「家族が学会活動に出かけることを喜んで留守番する人の功徳云々」という少年部的講義が二本柱になる一節ですね。どっちも創価流のインチキ講義ですけでけどね。本文で言われている『心』とは当然『信心』です師弟不二の心じゃないです。さて、その信心が大切な理由は「我等は穢土に候へども心は霊山に住べし」とあるように信心によって我々凡夫は娑婆世界にいながら霊山に住することができるからです。いわゆる【娑婆即寂光】の法理です。この法理を詳しく説明すると、『御義口伝』で、「霊鷲山とは寂光土なり」とあり、『四条金吾殿御消息』には、「若し然らば日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか。娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模国、相模国の中には片瀬、片瀬の中には竜口に、日蓮が命をとどめをく事は、法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか」と書かれ、『南条殿御返事』にも、「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。(中略)かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき」等々の御指南にあるように、霊山=寂光土=仏国土=日蓮大聖人のおわします場所ということです。ですからこの御書を認められた時の本源の寂光土とは身延山です。そして大聖人滅後は大聖人の色心二法である総体の御本尊がある場所が本源の寂光土となります。その総体の御本尊とは、日寛上人が
◇弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり(観心本尊抄文段)
とお示しの様に弘安二年の戒壇大御本尊に他なりません。こう書くと創価員は戒壇の大御本尊のことは御書に全く書かれていないなどといいますが、戒壇大御本尊は日興上人が唯授一人相承された御本尊ですから日興上人以外に与えられた御書に書かれていないのは当然ですし日興上人が軽々に口外しないのも当然です。むしろ、「御真筆も書写の本尊も等しい」という創価の主張こそおかしいのです。何故なら「書写の本尊」について御書のどこにも書かれていないからです。もちろん、本尊書写についても日興上人爾来の唯授一人血脈だから御書に書かれていないのかも知れませんが、その血脈付法の日寛上人は、
◇本門戒壇の本尊は応に是れ総体の本尊なるべし。是れ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は応に是れ別体の本尊なるべし。是れ則ち面々各々の本尊なるが故なり(観心本尊抄文段)
と戒壇大御本尊が総体(根本)の本尊であり、その他の本尊は別体、つまり総体の本尊から生まれ総体の本尊に帰結する本尊であると御指南されています。つまり、現在における本源の寂光土とは戒壇大御本尊のおわします、富士大石寺に他なりません。その上で、
◆我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し申す計り無し(最蓮房御返事)
との御指南の如く戒壇大御本尊に根本の信を取り、その分身散影である別体の御本尊に勤行・唱題を申し上げる時(即ち本門の題目を唱える時)にはその場所が寂光土になるにのです。そしてその寂光土(仏国土)に住せば必ず幸福になる。だからこそ心=信心が大切だと言われているのです。【娑婆即寂光】の【即】とは、日蓮大聖人=戒壇大御本尊に対する信心以外の何物でもあります。然るに現在の池田創価は、戒壇大御本尊のおわします大石寺を謗法の地など誹謗し、謗法の地にある戒壇大御本尊を受持しないと言っていますが、これは実に本末転倒で、戒壇大御本尊がご安置している場所を謗法の地であるということ自体が大聖人の御指南に反する我見・邪義なのです。そもそも末法今時においては世界中のほとんどの場所が謗法の地=娑婆世界なのです。戒壇大御本尊を断捨離し、尚且つ戒壇大御本尊を真似た海賊版本尊を安置している学会員の自宅など大謗法の地に他なりません。また創価のプロバガンダに、「特別な場所に行かなければ成仏できない」つまり大石寺に御登山しなければ成仏できない。などと日蓮正宗では言っていません。しかし、高齢の阿仏房が佐渡の国から大聖人を求めて何度も身延を訪れたように信徒として戒壇御本尊にお目通りしたいと願うことは当然のことです。一方で、身延の大聖人の許へ行きたくても行けなかった千日尼のように様々な事情で大石寺に参詣できない信徒であっても、戒壇大御本尊への信心があれば成仏できるのです。それが日蓮正宗の教えです。あなた達、学会員はどうですか?御受戒・勧戒を受ければ戒壇大御本尊にお目通りできるのに最初からそれを放棄して、言うに事欠いて戒壇大御本尊がご安置されている場所を「謗法の地」などといって嫌う。大聖人より池田大作を大切にする。そんな学会員では何百回この『千日尼御前御返事』を読み返しても何も理解できません。そしてそんな学会員の講義など聞いたところで何の役にも立たのです。学会員各位においては、心こそ大切に候へとの大聖人のお言葉を深く拝し、創価のウソを見抜いて戒壇大御本尊への信を取り戻し、【娑婆即寂光】の人生を歩んで欲しいと願ってます。
今月の座談会御書は別名『雷門鼓御書』の一節です。当抄は夫の阿仏房を身延の大聖人の許に三度送り出した妻の千日尼の信心を称賛されてる一節です。この御文は顕正会・浅井がインチキ遥拝勤行を正当化する御文としても有名です。創価的には、「池田先生と直接会うことが大切なのではなく、師匠の心をわが心とする師弟不二の云々」という男子部的な講義か、「家族が学会活動に出かけることを喜んで留守番する人の功徳云々」という少年部的講義が二本柱になる一節ですね。どっちも創価流のインチキ講義ですけでけどね。本文で言われている『心』とは当然『信心』です師弟不二の心じゃないです。さて、その信心が大切な理由は「我等は穢土に候へども心は霊山に住べし」とあるように信心によって我々凡夫は娑婆世界にいながら霊山に住することができるからです。いわゆる【娑婆即寂光】の法理です。この法理を詳しく説明すると、『御義口伝』で、「霊鷲山とは寂光土なり」とあり、『四条金吾殿御消息』には、「若し然らば日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか。娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模国、相模国の中には片瀬、片瀬の中には竜口に、日蓮が命をとどめをく事は、法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか」と書かれ、『南条殿御返事』にも、「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。(中略)かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき」等々の御指南にあるように、霊山=寂光土=仏国土=日蓮大聖人のおわします場所ということです。ですからこの御書を認められた時の本源の寂光土とは身延山です。そして大聖人滅後は大聖人の色心二法である総体の御本尊がある場所が本源の寂光土となります。その総体の御本尊とは、日寛上人が
◇弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり(観心本尊抄文段)
とお示しの様に弘安二年の戒壇大御本尊に他なりません。こう書くと創価員は戒壇の大御本尊のことは御書に全く書かれていないなどといいますが、戒壇大御本尊は日興上人が唯授一人相承された御本尊ですから日興上人以外に与えられた御書に書かれていないのは当然ですし日興上人が軽々に口外しないのも当然です。むしろ、「御真筆も書写の本尊も等しい」という創価の主張こそおかしいのです。何故なら「書写の本尊」について御書のどこにも書かれていないからです。もちろん、本尊書写についても日興上人爾来の唯授一人血脈だから御書に書かれていないのかも知れませんが、その血脈付法の日寛上人は、
◇本門戒壇の本尊は応に是れ総体の本尊なるべし。是れ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は応に是れ別体の本尊なるべし。是れ則ち面々各々の本尊なるが故なり(観心本尊抄文段)
と戒壇大御本尊が総体(根本)の本尊であり、その他の本尊は別体、つまり総体の本尊から生まれ総体の本尊に帰結する本尊であると御指南されています。つまり、現在における本源の寂光土とは戒壇大御本尊のおわします、富士大石寺に他なりません。その上で、
◆我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し申す計り無し(最蓮房御返事)
との御指南の如く戒壇大御本尊に根本の信を取り、その分身散影である別体の御本尊に勤行・唱題を申し上げる時(即ち本門の題目を唱える時)にはその場所が寂光土になるにのです。そしてその寂光土(仏国土)に住せば必ず幸福になる。だからこそ心=信心が大切だと言われているのです。【娑婆即寂光】の【即】とは、日蓮大聖人=戒壇大御本尊に対する信心以外の何物でもあります。然るに現在の池田創価は、戒壇大御本尊のおわします大石寺を謗法の地など誹謗し、謗法の地にある戒壇大御本尊を受持しないと言っていますが、これは実に本末転倒で、戒壇大御本尊がご安置している場所を謗法の地であるということ自体が大聖人の御指南に反する我見・邪義なのです。そもそも末法今時においては世界中のほとんどの場所が謗法の地=娑婆世界なのです。戒壇大御本尊を断捨離し、尚且つ戒壇大御本尊を真似た海賊版本尊を安置している学会員の自宅など大謗法の地に他なりません。また創価のプロバガンダに、「特別な場所に行かなければ成仏できない」つまり大石寺に御登山しなければ成仏できない。などと日蓮正宗では言っていません。しかし、高齢の阿仏房が佐渡の国から大聖人を求めて何度も身延を訪れたように信徒として戒壇御本尊にお目通りしたいと願うことは当然のことです。一方で、身延の大聖人の許へ行きたくても行けなかった千日尼のように様々な事情で大石寺に参詣できない信徒であっても、戒壇大御本尊への信心があれば成仏できるのです。それが日蓮正宗の教えです。あなた達、学会員はどうですか?御受戒・勧戒を受ければ戒壇大御本尊にお目通りできるのに最初からそれを放棄して、言うに事欠いて戒壇大御本尊がご安置されている場所を「謗法の地」などといって嫌う。大聖人より池田大作を大切にする。そんな学会員では何百回この『千日尼御前御返事』を読み返しても何も理解できません。そしてそんな学会員の講義など聞いたところで何の役にも立たのです。学会員各位においては、心こそ大切に候へとの大聖人のお言葉を深く拝し、創価のウソを見抜いて戒壇大御本尊への信を取り戻し、【娑婆即寂光】の人生を歩んで欲しいと願ってます。
» k22024「若悩乱者頭破七分」 「有供養者福過十号」
ここで、質問です。
ご本尊の右肩に 「若悩乱者頭破七分」、左肩に 「有供養者福過十号」
と書かれている意味は???
それと、大石寺の戒壇大御本尊には、
ご本尊の右肩に 「若悩乱者頭破七分」、左肩に 「有供養者福過十号」
が、書かれていない理由は???よろしくお願いいたします。
回答
御本尊の御相貌については我々信徒が軽々に判断するようなことではありませんのであくまでも参考程度に聞いてください。
>ご本尊の右肩に 「若悩乱者頭破七分」、左肩に 「有供養者福過十号」
と書かれている意味は???
については、日興上人の御本尊七箇之相承』に、
「本尊書写の事、予が顕わし奉るが如くなるべし。若し日蓮御判と書かずんば天神・地神もよも用い給わざらん。
上行・無辺行と持国と浄行・安立行と毘沙門との間には、「若能乱者頭破七分」・「有供養者福過十号」と之れを書く可し。
経中の明文等心に任す可きか」と書かれています。
また、
>それと、大石寺の戒壇大御本尊には、
ご本尊の右肩に 「若悩乱者頭破七分」、左肩に 「有供養者福過十号」
が、書かれていない理由は???よろしくお願いいたします。
に関しては特に御指南はありませんので、
あくまでも私見になりますが、
大石寺の戒壇の大御本尊は、大聖人己心の十界を曼荼羅に顕しています。
「若悩乱者頭破七分」・「有供養者福過十号」の言葉は、
『法華文句記』の中の一つの言葉でありも大聖人の己心の十界ではありません。
ですからこの文字を生身の大聖人の色心二法である大石寺の戒壇の大御本尊に書く必要はありません。さて、この質問は重要です。
書写の本尊と「大石寺の戒壇の大御本尊」の相貌の相違を指摘して、「大石寺の戒壇の大御本尊」は、偽作である。と主張する人間がいます。
その件については、いずれ記事にして破折します。
ご本尊の右肩に 「若悩乱者頭破七分」、左肩に 「有供養者福過十号」
と書かれている意味は???
それと、大石寺の戒壇大御本尊には、
ご本尊の右肩に 「若悩乱者頭破七分」、左肩に 「有供養者福過十号」
が、書かれていない理由は???よろしくお願いいたします。
回答
御本尊の御相貌については我々信徒が軽々に判断するようなことではありませんのであくまでも参考程度に聞いてください。
>ご本尊の右肩に 「若悩乱者頭破七分」、左肩に 「有供養者福過十号」
と書かれている意味は???
については、日興上人の御本尊七箇之相承』に、
「本尊書写の事、予が顕わし奉るが如くなるべし。若し日蓮御判と書かずんば天神・地神もよも用い給わざらん。
上行・無辺行と持国と浄行・安立行と毘沙門との間には、「若能乱者頭破七分」・「有供養者福過十号」と之れを書く可し。
経中の明文等心に任す可きか」と書かれています。
また、
>それと、大石寺の戒壇大御本尊には、
ご本尊の右肩に 「若悩乱者頭破七分」、左肩に 「有供養者福過十号」
が、書かれていない理由は???よろしくお願いいたします。
に関しては特に御指南はありませんので、
あくまでも私見になりますが、
大石寺の戒壇の大御本尊は、大聖人己心の十界を曼荼羅に顕しています。
「若悩乱者頭破七分」・「有供養者福過十号」の言葉は、
『法華文句記』の中の一つの言葉でありも大聖人の己心の十界ではありません。
ですからこの文字を生身の大聖人の色心二法である大石寺の戒壇の大御本尊に書く必要はありません。さて、この質問は重要です。
書写の本尊と「大石寺の戒壇の大御本尊」の相貌の相違を指摘して、「大石寺の戒壇の大御本尊」は、偽作である。と主張する人間がいます。
その件については、いずれ記事にして破折します。
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プロフィール
HN:
本名:髙倉良一(たかくらりょういち)
性別:
男性
職業:
大学教員
趣味:
思索と散歩と映画鑑賞
自己紹介:
HN:希望
大学と各種の専門学校で、法律学、哲学、社会学、家族社会学、家族福祉論、初等社会、公民授業研究、論理的思考などの科目を担当しています。
KJ法、マインド・マップ、ロールプレイングなどの技法を取り入れ、映画なども教材として活用しながら、学生と教員が相互に学び合うという参画型の授業を実践しています。現在の研究テーマの中心は、法教育です。
私は命ある限り、人間を不幸にする悪と闘い抜く覚悟です。111歳までは、仕事をしようと決意しています。
大学と各種の専門学校で、法律学、哲学、社会学、家族社会学、家族福祉論、初等社会、公民授業研究、論理的思考などの科目を担当しています。
KJ法、マインド・マップ、ロールプレイングなどの技法を取り入れ、映画なども教材として活用しながら、学生と教員が相互に学び合うという参画型の授業を実践しています。現在の研究テーマの中心は、法教育です。
私は命ある限り、人間を不幸にする悪と闘い抜く覚悟です。111歳までは、仕事をしようと決意しています。
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