津村信一氏による大江戸仏教瓦版の続きを掲載致します。
記
例えばうつ病患者が自殺するときは、ほとんど症状が改善して元気になり、気分が上々になっている場合が多い。そんな時に自殺してしまうんです。周囲はもう大丈夫だと思っているから、みんな仰天する。残された人間は、誰一人彼彼女の苦悩を理解できなかったわけでしょう。そんな人間が祈っても、容易に届くことは考えられない。
「なんとなく分かるような気がしますが」
ーー症状が改善して元気になっても、また以前と同じ悲惨な環境に戻ることになったら、ぶり返してしまう。もう嫌だとなって、自殺するんです。だから一度治った段階で、生活や仕事の環境を変える必要がある。本人を追込むストレスというのは、具体的には仕事・家庭家族の問題(介護を含む)・対人関係・経済的問題・病気などです。どれか一つというよりも、原因が複合し、がんじがらめになっている場合が多い。仕事で忙しいにもかかわらず、家に帰って嫌いな姑のおむつを替えてやらなければならない。食事も用意して食べさせてやらなければならないとか。それで離婚したり家出したりする人は、自分なりに解決を見出すんですが、真面目な人や責任感の強い人ほど全部引き受けてしまい、逃場なく自分を追込んで倒れてしまう。それで自殺すると、誰も絶対気づかない。周囲はうまくいっていると思っていたから、どうしてだ、となる。たしかに身近な人ですが、自分の非に気づいていない。そんな人間がいくら祈っても、絶対に通じませんから、救われるはずがない。もちろん成仏なんてできません。それでも祈るようであれば、他人に指摘されて、初めて自己の非に気づくこともあるでしょう。だから先に事情を知っていた人が、法華経で真剣に祈るしかない。それで再度人間に生まれ変わってきます。しかし生まれ変わっても、何かあったら自殺すればいいと安易に考える傾向があります。また〃死〃を美化して憧れもするでしょう。それは当人が前世で心底に植え付けた生命の傾向だから、容易に消すことはできない。だから人を救うのは、真心しかないんですよ。
「そういえば、学会員がせめて大石寺の見えるところで死にたいと、青木ヶ原樹海に入る例があると聞きましたが」
ーーうちの指導僧(本門法華堂)に尋ねたら、個々の例は知らないが、たまに聞く話だということでした。正しい信仰とそれに則った正しい生活を教えられないから、法華経に縁しても悲惨な結果になる。学会は猛々しい宗教ですからね、敗北は絶対認めない。2025年の都議選や参院選で議席を減らしても、勝った勝った、大勝利と騒いでる。猛々しいプーチンに率いられたロシア軍と同じですよ。だからどうしょうもなく心が折れた人を救うことはできない。それで諦めて樹海に入ったんでしょうね。私のように脱会した人間は、みんな心の弱い情けない奴だと思っている。だから痛めつけて、自殺に追込めということになっているでしょう。私は強情なんで、未だに自殺もしていないし、仕留められてもいません。1988年(昭和63年)に衆院議員だった大橋さんが「1年以内に池田を倒す」と決起したとき、末端で活動し始めてからもう37年ですがね。
「仏教は自殺を認めていないと聞きますが」
ーーお釈迦さんは方便として認めていました。ただし現世で仏や教団を供養し、尊重した弟子や信徒に限ります。そういう人物に対し、「あなたは十分役目を果たした。希望するなら、あるいは今の状況なら、それもよかろう」と認めたのです。だから仏の本心ではなかった。まして法華経は即身成仏の法です。あくまで現世一代でストレスを解決する教えだから、自殺という一時回避はありません。業の深い難病で来世も続くような場合、現世でその難病で死ぬことによって全て清算してしまい、次生はなんの曇りもない健康体で生まれてくることになります。涅槃経の「転重軽受」という法門です。あまりにも重い業病の解決法として知られてますね。
「それは涅槃経の教えだから、法華経とは関係がないはずですが」
ーー法華経は根と樹幹の一切法だから、枝葉末節の涅槃経も取り込んでいます。だから転
重軽受という解決法も含んでいるのです。また日蓮聖人のいう即身成仏を金ピカの仏になることではなく、現世一代で全ての悪業を断絶してしまうということなら、転重軽受を即身成仏だと考えてもいいと思います。もし金ピカの仏になりたいと思ったら、何度生まれ変わっても、常にその世代で法華経を多くの人に説き、救済に励む必要があります。お釈迦さんと同じですね。
面白いことに、阿弥陀仏の救済も説かれています。第二十三章薬王菩薩本事品ですが、未来世に女性が法華経を正しく信仰すれば、阿弥陀仏が大菩薩に囲まれて説法する座に生まれることになっています。
「他の経典や宗教は枝葉末節だから、本当に救済を願うなら、智慧や縁によって法華経に至ることがあるんですか」
ーーそうです。求めなければ行き当たらない。例えば念仏の根本経典は、『無量寿経』です。阿弥陀仏の世界に往生することで救われるという教えです。ところがこの経には賞味期限が設定されてまして、最終部分に、後に教えの滅びる百年間(像法末から末法の始まる百年間)に限り、この経に特別に神通力を下し、阿弥陀仏の功徳に与れるようにしてあげようというお釈迦さんの保障があります。その肝腎な部分を挙げてみましょう。
つづく
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記
またどんな仏様にも物事の道理である〃是処〃と、非道理である〃非処〃を極め尽くす智慧があり、その能力が〃〃です。仏様には〃如来十力〃という特殊な十の能力がありますが、その中でも真っ先に出てくる能力です。我々が法を本尊(法本尊)として礼拝することは、この能力を体得して問題解決の筋道がつけられるようになったり、それが早くなることです。何事につけ、道理的な解決法が身についていく。迷ったり、不必要に動揺しなくなるのです。いちいち絵像の阿弥陀仏や観音菩薩のような人を本尊としたもの()にお願いして、解決してもらう必要がなくなるのです。不動明王も大日如来もいりません。己自身が法を体得し、全てを道理的に解決していく。だから即身成仏というのです。
「しかしお釈迦さんや阿弥陀仏と違って、我々は三世を知ることはできませんが」
ーー大いに結構。なぜなら法華経は、現世を正しくしく生きるための経典です。過去世など知らなくても、現世一代で過去世から続く悪業を全て断絶させてしまうことができる。たとえ過去無量劫の業があっても、それらは全て現在の2メートル足らずのこの身に集中しているんです。現世の自分が幸せになれば、鬱陶しい過去はどうでもいいでしょう。
それでも過去世を知りたいなら、催眠療法を受ける方法があります。ベテランの催眠療法家のもとに行き、催眠術を掛けてもらうんです。先生が、はい、あなたは今3歳ですよ。お母さんはどうしてますかと尋ねると、40歳の男性が本当に幼児言葉で答えるんです。そうして次第に過去にさかのぼっていく。それで過去世に何があったか知ることができます。ただしあんまり勧めません。
「それはどういった理由ですか」
ーー過去世のストレスに行き当たるんですよ。例えばそのときに悩まされていた病気が、現世で復活することがあります。過去世で投薬やリハビリに励んで治していたけれども、不用意に催眠療法で過去世を探ったからこそ、その記憶が蘇り、現世でその病が復活するんです。また投薬やリハビリでお金と時間を費やすことになる。そんなわけで、誰にでも勧められるわけじゃない。
面白いことに〃縁続の因縁〃というものがあります。例えば過去世に理不尽な苛めを受け続けてきた。どうしても復讐したいと考えていたが、しかし当時の人生では叶わなかった。自分は生まれ変わっているにもかかわらず、相手は罪を得ているから、なかなか生まれ変われずにいる。それこそ三代を経て生まれ変わってくることになる。もちろん双方共に過去のことは覚えていませんよ。ところがある晩、過去世で苛めていた怨敵が缶ビール片手にふらふらと車道に飛び出してきた。それをあなたが轢いてしまったが、縁者がいないので無縁仏の処理になったら、なかなかの結末じゃありませんか。だから『復讐するは我にあり』なんて考える必要はない。自分が正しければ、相手は自滅していくようになっているんです。それこそ法華経で祈れば、現世で怨敵が崩壊する結果を見ることができるでしょう。選挙で敗北を続ける創価学会が好い例です。もう特級呪物に祟られているんですね。いや、〃特級呪仏〃と言うべきか。
つづく
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「それはともかく、お釈迦さんの弟子達は、過去の因縁を探る修行をしたと聞きましたが」
ーー彼等は仏の言葉を学習し、それを体得するための禅定に入るんです。して心の散乱を防ぎ、薄目のまま沈潜していく。この過程で、例えばという神通力を体得できる。自己の過去世を知る能力です。彼等は〃の衆生〃といいまして、久遠の昔から仏や菩薩達に親しみ近づき、弟子や信徒となって支えてきた人間です。具体的には説法を助けたり、衣食などを供養して尊重し、善の性質を植え付けてきた。だから仏の出世に会うことができ、弟子となって神通力も体得できた。
ところが我々はそうじゃない。約一千年前の1052年から末法です。それ以降に生まれた人は、我々を含めて〃の衆生〃だから、もともと善の性質などありません。それこそ仏やその弟子達を棒で打ち、石を投げて追い払ってきた人間です。それが末法に生まれてきた我々です。我々には、みんなそんな過去があるのです。だから善なんてあるはずがない。
お釈迦さんはまことに憐れむべき衆生であると言い、仏の悟りである法華経を残した。そして末法に入ってから一般大衆全てに伝授し、現世一代での正しい修行によって悪を離れるよう教えたわけです。具体的には法華経の説法の場で格別な儀式を行い、新たに登場した地涌の菩薩達にそれを授けた。末法に入ってから、彼等は日蓮聖人を筆頭に弟子や信徒として登場した。だからいつの世でもほんの一握りしかいません。日蓮聖人直結と言いながら、聖人の曼荼羅を大量に焼却処分した創価学会を、地涌の菩薩と認めることはできないでしょう。
さて、法華経第二十八章では、過去世において法華経修行者の過失や悪を暴露した人は、次世代ではハンセン病にかかると仏が断言されてます。20世紀半ばまでは不治の病でした。ハンセン病患者の収容施設には各宗派の祭壇がありますが、法華経を尊ぶ日蓮系教団の祭壇が盛況です。なんせ原因が説かれているんですから。創価学会の祭壇もあります。A新聞にその記事が載っていました。しかし過去世を強調すると、差別を助長するのかと非難されますから、あんまり口にしない方がいい。たとえ事実でも、当人や周囲の人から反感や憎悪を買うでしょう。それで自殺でもされたら、どう責任をとるんですか。お金払ってすむ問題じゃないでしょう。
「ところで現在の日本では、年間2万人もの自殺者がでるんです。欧米のメディアでも話題になってましたが、仏教ではそれをどう考えるんですか。なかなか成仏できないと聞きますが」
ーーそりゃあ当然ですよ。自殺には相当なエネルギーを使うんです。救うためには、それ以上のエネルギーが必要になる。東京にいたときの勤務先の知り合いで、歌舞伎町のビルの8階から飛び降りた人がいました。後ろから抱き止めようとしても、引きずられて自分も落ちてしまいます。率直に言って、私には止める勇気はありません。自殺二日前に当人に会ったという人は、顔色が蒼白だったと言ってました。葬儀の際、喪主の奥さんは涙一滴もこぼさなかったそうです。気の強い奥さんだと聞いてましたから、ふだんから自殺者本人が苦しみを打ち明けられず、回線を外すような状態に追い込まれていたんでしょう。在りし日の苦悩を理解してあげられなかったということは、現世で止める術はなかったわけです。死んでも回線を外した状態だから、こちらの祈りは容易に届かなくなっている。成仏するとは考えられない。
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大江戸仏教瓦版 その3
津村信一氏による大江戸仏教瓦版の続きを掲載致します。
記
ではもっと卑近な例を挙げましょう。今日は可燃物収拾の日です。そんな時に不燃物を出して知らん顔したらどうなります。収拾する人も家の前のゴミ捨て場を掃除する人も、面白くないでしょう。しかし違反する人は無頓着で、不燃物の日に可燃物を平気な顔で出すんですよ。そんなことが続いたら、お掃除する人だけじゃなくて、近所の人も面白くないでしょう。だから違反したら、気づいた人がその家に可燃ゴミも不燃ゴミも投げ入れるようになる。そしてゴミ屋敷になって、家にカビが生えてしまった。では、それはいったい誰が悪いんでしょうか。もとはみんな非常識なゴミ捨てをした人が悪いんでしょう。たとえ裁判で勝っても、自己の非は責められますよね。思うほどの賠償は得られません。
さて、人は右、車は左は国法です。仏教では王法と表現します。非常識なゴミ捨てに対する制裁は世間法です。だから「若有悩乱者。頭破作七分」は、仏法の道理に迷う人は、目に見える形で国法や世間法の道理に背き、不幸になるということです。仏法は国法や世間法と違って目に見えません。電気と同じように過った使い方をしたら感電し、場合によっては死んでしまうのです。
「例えば三歳の子供がマッチで火遊びし、家も自分も焼いて死んでしまうのは世間法でしょうか」
ーーそうです。世間法になります。仏教では人間の精神面を〃心識〃といいますが、それが未だ発達していないので、自分にとって苦(害)か、楽(利益)か、あるいはどちらでもない(捨)の判断ができない。だから家も自分も焼いて死んでしまうんです。目に見えないから、知らないからといっても、国法や世間法は存在しているのです。仏法もそれと同じですが、一般人は容易に知ることができないから、苦悩を抱えて悶々とする。だから仏は透徹した智慧によって道理と非道理を見極め、法を説くのです。それが仏法です。
「裁判は弁護人と検察でずっと道理・非道理のせめぎあいが続くんですが、目に見えない仏法では、それをどのように解決するんでしょうか」
ーー何も難しく考える必要はありませんよ。正しい教えを正しく修行すれば、道理的に解決するようになるのです。朝夕法華経で唱える第十六章如来寿量品に説かれてあります。
どうしても仏にお目にかかりたいと思い、
命さえ惜しまなくなる。
その時に私と多くの僧は
倶に霊鷲山に出てくるのである。
私はこのように語る。
我自語衆生から仏の説法が始まります。説法の内容は、礼拝する当人がもっとも悩んでいるストレスの対処法です。だから現実世界で、目に見える形で、道理に則った正しい解決が出てくるのです。日蓮聖人は『白米一俵御書』の中で、次のように語っています。
若し深く世法を識らば、即ちこれ仏法なり。
やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。
この文の〃識らば〃ですが、識るは単に知ると違って、深い認識の上に成り立つ言葉です。それには物事の道理と非道理を明確に立て分けできなければなりません。仏法という法則は道理と非道理を峻別し、厳格な境界を置くことです。道理を、非道理をといいます。
日蓮聖人は法と非法・破法は左右の定まれる法として、法に対しては『有供養者。福過十号』と置き、非法・破法に対しては『若有悩乱者。頭破作七分』とめたわけです。
つづく
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大江戸仏教瓦版 その3
津村信一氏による大江戸仏教瓦版の続きを掲載致します。
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ではもっと卑近な例を挙げましょう。今日は可燃物収拾の日です。そんな時に不燃物を出して知らん顔したらどうなります。収拾する人も家の前のゴミ捨て場を掃除する人も、面白くないでしょう。しかし違反する人は無頓着で、不燃物の日に可燃物を平気な顔で出すんですよ。そんなことが続いたら、お掃除する人だけじゃなくて、近所の人も面白くないでしょう。だから違反したら、気づいた人がその家に可燃ゴミも不燃ゴミも投げ入れるようになる。そしてゴミ屋敷になって、家にカビが生えてしまった。では、それはいったい誰が悪いんでしょうか。もとはみんな非常識なゴミ捨てをした人が悪いんでしょう。たとえ裁判で勝っても、自己の非は責められますよね。思うほどの賠償は得られません。
さて、人は右、車は左は国法です。仏教では王法と表現します。非常識なゴミ捨てに対する制裁は世間法です。だから「若有悩乱者。頭破作七分」は、仏法の道理に迷う人は、目に見える形で国法や世間法の道理に背き、不幸になるということです。仏法は国法や世間法と違って目に見えません。電気と同じように過った使い方をしたら感電し、場合によっては死んでしまうのです。
「例えば三歳の子供がマッチで火遊びし、家も自分も焼いて死んでしまうのは世間法でしょうか」
ーーそうです。世間法になります。仏教では人間の精神面を〃心識〃といいますが、それが未だ発達していないので、自分にとって苦(害)か、楽(利益)か、あるいはどちらでもない(捨)の判断ができない。だから家も自分も焼いて死んでしまうんです。目に見えないから、知らないからといっても、国法や世間法は存在しているのです。仏法もそれと同じですが、一般人は容易に知ることができないから、苦悩を抱えて悶々とする。だから仏は透徹した智慧によって道理と非道理を見極め、法を説くのです。それが仏法です。
「裁判は弁護人と検察でずっと道理・非道理のせめぎあいが続くんですが、目に見えない仏法では、それをどのように解決するんでしょうか」
ーー何も難しく考える必要はありませんよ。正しい教えを正しく修行すれば、道理的に解決するようになるのです。朝夕法華経で唱える第十六章如来寿量品に説かれてあります。
どうしても仏にお目にかかりたいと思い、
命さえ惜しまなくなる。
その時に私と多くの僧は
倶に霊鷲山に出てくるのである。
私はこのように語る。
我自語衆生から仏の説法が始まります。説法の内容は、礼拝する当人がもっとも悩んでいるストレスの対処法です。だから現実世界で、目に見える形で、道理に則った正しい解決が出てくるのです。日蓮聖人は『白米一俵御書』の中で、次のように語っています。
若し深く世法を識らば、即ちこれ仏法なり。
やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。
この文の〃識らば〃ですが、識るは単に知ると違って、深い認識の上に成り立つ言葉です。それには物事の道理と非道理を明確に立て分けできなければなりません。仏法という法則は道理と非道理を峻別し、厳格な境界を置くことです。道理を、非道理をといいます。
日蓮聖人は法と非法・破法は左右の定まれる法として、法に対しては『有供養者。福過十号』と置き、非法・破法に対しては『若有悩乱者。頭破作七分』とめたわけです。
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KJ法、マインド・マップ、ロールプレイングなどの技法を取り入れ、映画なども教材として活用しながら、学生と教員が相互に学び合うという参画型の授業を実践しています。現在の研究テーマの中心は、法教育です。
私は命ある限り、人間を不幸にする悪と闘い抜く覚悟です。111歳までは、仕事をしようと決意しています。