記
またどんな仏様にも物事の道理である〃是処〃と、非道理である〃非処〃を極め尽くす智慧があり、その能力が〃〃です。仏様には〃如来十力〃という特殊な十の能力がありますが、その中でも真っ先に出てくる能力です。我々が法を本尊(法本尊)として礼拝することは、この能力を体得して問題解決の筋道がつけられるようになったり、それが早くなることです。何事につけ、道理的な解決法が身についていく。迷ったり、不必要に動揺しなくなるのです。いちいち絵像の阿弥陀仏や観音菩薩のような人を本尊としたもの()にお願いして、解決してもらう必要がなくなるのです。不動明王も大日如来もいりません。己自身が法を体得し、全てを道理的に解決していく。だから即身成仏というのです。
「しかしお釈迦さんや阿弥陀仏と違って、我々は三世を知ることはできませんが」
ーー大いに結構。なぜなら法華経は、現世を正しくしく生きるための経典です。過去世など知らなくても、現世一代で過去世から続く悪業を全て断絶させてしまうことができる。たとえ過去無量劫の業があっても、それらは全て現在の2メートル足らずのこの身に集中しているんです。現世の自分が幸せになれば、鬱陶しい過去はどうでもいいでしょう。
それでも過去世を知りたいなら、催眠療法を受ける方法があります。ベテランの催眠療法家のもとに行き、催眠術を掛けてもらうんです。先生が、はい、あなたは今3歳ですよ。お母さんはどうしてますかと尋ねると、40歳の男性が本当に幼児言葉で答えるんです。そうして次第に過去にさかのぼっていく。それで過去世に何があったか知ることができます。ただしあんまり勧めません。
「それはどういった理由ですか」
ーー過去世のストレスに行き当たるんですよ。例えばそのときに悩まされていた病気が、現世で復活することがあります。過去世で投薬やリハビリに励んで治していたけれども、不用意に催眠療法で過去世を探ったからこそ、その記憶が蘇り、現世でその病が復活するんです。また投薬やリハビリでお金と時間を費やすことになる。そんなわけで、誰にでも勧められるわけじゃない。
面白いことに〃縁続の因縁〃というものがあります。例えば過去世に理不尽な苛めを受け続けてきた。どうしても復讐したいと考えていたが、しかし当時の人生では叶わなかった。自分は生まれ変わっているにもかかわらず、相手は罪を得ているから、なかなか生まれ変われずにいる。それこそ三代を経て生まれ変わってくることになる。もちろん双方共に過去のことは覚えていませんよ。ところがある晩、過去世で苛めていた怨敵が缶ビール片手にふらふらと車道に飛び出してきた。それをあなたが轢いてしまったが、縁者がいないので無縁仏の処理になったら、なかなかの結末じゃありませんか。だから『復讐するは我にあり』なんて考える必要はない。自分が正しければ、相手は自滅していくようになっているんです。それこそ法華経で祈れば、現世で怨敵が崩壊する結果を見ることができるでしょう。選挙で敗北を続ける創価学会が好い例です。もう特級呪物に祟られているんですね。いや、〃特級呪仏〃と言うべきか。
つづく
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記
「それはともかく、お釈迦さんの弟子達は、過去の因縁を探る修行をしたと聞きましたが」
ーー彼等は仏の言葉を学習し、それを体得するための禅定に入るんです。して心の散乱を防ぎ、薄目のまま沈潜していく。この過程で、例えばという神通力を体得できる。自己の過去世を知る能力です。彼等は〃の衆生〃といいまして、久遠の昔から仏や菩薩達に親しみ近づき、弟子や信徒となって支えてきた人間です。具体的には説法を助けたり、衣食などを供養して尊重し、善の性質を植え付けてきた。だから仏の出世に会うことができ、弟子となって神通力も体得できた。
ところが我々はそうじゃない。約一千年前の1052年から末法です。それ以降に生まれた人は、我々を含めて〃の衆生〃だから、もともと善の性質などありません。それこそ仏やその弟子達を棒で打ち、石を投げて追い払ってきた人間です。それが末法に生まれてきた我々です。我々には、みんなそんな過去があるのです。だから善なんてあるはずがない。
お釈迦さんはまことに憐れむべき衆生であると言い、仏の悟りである法華経を残した。そして末法に入ってから一般大衆全てに伝授し、現世一代での正しい修行によって悪を離れるよう教えたわけです。具体的には法華経の説法の場で格別な儀式を行い、新たに登場した地涌の菩薩達にそれを授けた。末法に入ってから、彼等は日蓮聖人を筆頭に弟子や信徒として登場した。だからいつの世でもほんの一握りしかいません。日蓮聖人直結と言いながら、聖人の曼荼羅を大量に焼却処分した創価学会を、地涌の菩薩と認めることはできないでしょう。
さて、法華経第二十八章では、過去世において法華経修行者の過失や悪を暴露した人は、次世代ではハンセン病にかかると仏が断言されてます。20世紀半ばまでは不治の病でした。ハンセン病患者の収容施設には各宗派の祭壇がありますが、法華経を尊ぶ日蓮系教団の祭壇が盛況です。なんせ原因が説かれているんですから。創価学会の祭壇もあります。A新聞にその記事が載っていました。しかし過去世を強調すると、差別を助長するのかと非難されますから、あんまり口にしない方がいい。たとえ事実でも、当人や周囲の人から反感や憎悪を買うでしょう。それで自殺でもされたら、どう責任をとるんですか。お金払ってすむ問題じゃないでしょう。
「ところで現在の日本では、年間2万人もの自殺者がでるんです。欧米のメディアでも話題になってましたが、仏教ではそれをどう考えるんですか。なかなか成仏できないと聞きますが」
ーーそりゃあ当然ですよ。自殺には相当なエネルギーを使うんです。救うためには、それ以上のエネルギーが必要になる。東京にいたときの勤務先の知り合いで、歌舞伎町のビルの8階から飛び降りた人がいました。後ろから抱き止めようとしても、引きずられて自分も落ちてしまいます。率直に言って、私には止める勇気はありません。自殺二日前に当人に会ったという人は、顔色が蒼白だったと言ってました。葬儀の際、喪主の奥さんは涙一滴もこぼさなかったそうです。気の強い奥さんだと聞いてましたから、ふだんから自殺者本人が苦しみを打ち明けられず、回線を外すような状態に追い込まれていたんでしょう。在りし日の苦悩を理解してあげられなかったということは、現世で止める術はなかったわけです。死んでも回線を外した状態だから、こちらの祈りは容易に届かなくなっている。成仏するとは考えられない。
つづく
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大江戸仏教瓦版 その3
津村信一氏による大江戸仏教瓦版の続きを掲載致します。
記
ではもっと卑近な例を挙げましょう。今日は可燃物収拾の日です。そんな時に不燃物を出して知らん顔したらどうなります。収拾する人も家の前のゴミ捨て場を掃除する人も、面白くないでしょう。しかし違反する人は無頓着で、不燃物の日に可燃物を平気な顔で出すんですよ。そんなことが続いたら、お掃除する人だけじゃなくて、近所の人も面白くないでしょう。だから違反したら、気づいた人がその家に可燃ゴミも不燃ゴミも投げ入れるようになる。そしてゴミ屋敷になって、家にカビが生えてしまった。では、それはいったい誰が悪いんでしょうか。もとはみんな非常識なゴミ捨てをした人が悪いんでしょう。たとえ裁判で勝っても、自己の非は責められますよね。思うほどの賠償は得られません。
さて、人は右、車は左は国法です。仏教では王法と表現します。非常識なゴミ捨てに対する制裁は世間法です。だから「若有悩乱者。頭破作七分」は、仏法の道理に迷う人は、目に見える形で国法や世間法の道理に背き、不幸になるということです。仏法は国法や世間法と違って目に見えません。電気と同じように過った使い方をしたら感電し、場合によっては死んでしまうのです。
「例えば三歳の子供がマッチで火遊びし、家も自分も焼いて死んでしまうのは世間法でしょうか」
ーーそうです。世間法になります。仏教では人間の精神面を〃心識〃といいますが、それが未だ発達していないので、自分にとって苦(害)か、楽(利益)か、あるいはどちらでもない(捨)の判断ができない。だから家も自分も焼いて死んでしまうんです。目に見えないから、知らないからといっても、国法や世間法は存在しているのです。仏法もそれと同じですが、一般人は容易に知ることができないから、苦悩を抱えて悶々とする。だから仏は透徹した智慧によって道理と非道理を見極め、法を説くのです。それが仏法です。
「裁判は弁護人と検察でずっと道理・非道理のせめぎあいが続くんですが、目に見えない仏法では、それをどのように解決するんでしょうか」
ーー何も難しく考える必要はありませんよ。正しい教えを正しく修行すれば、道理的に解決するようになるのです。朝夕法華経で唱える第十六章如来寿量品に説かれてあります。
どうしても仏にお目にかかりたいと思い、
命さえ惜しまなくなる。
その時に私と多くの僧は
倶に霊鷲山に出てくるのである。
私はこのように語る。
我自語衆生から仏の説法が始まります。説法の内容は、礼拝する当人がもっとも悩んでいるストレスの対処法です。だから現実世界で、目に見える形で、道理に則った正しい解決が出てくるのです。日蓮聖人は『白米一俵御書』の中で、次のように語っています。
若し深く世法を識らば、即ちこれ仏法なり。
やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。
この文の〃識らば〃ですが、識るは単に知ると違って、深い認識の上に成り立つ言葉です。それには物事の道理と非道理を明確に立て分けできなければなりません。仏法という法則は道理と非道理を峻別し、厳格な境界を置くことです。道理を、非道理をといいます。
日蓮聖人は法と非法・破法は左右の定まれる法として、法に対しては『有供養者。福過十号』と置き、非法・破法に対しては『若有悩乱者。頭破作七分』とめたわけです。
つづく
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ではもっと卑近な例を挙げましょう。今日は可燃物収拾の日です。そんな時に不燃物を出して知らん顔したらどうなります。収拾する人も家の前のゴミ捨て場を掃除する人も、面白くないでしょう。しかし違反する人は無頓着で、不燃物の日に可燃物を平気な顔で出すんですよ。そんなことが続いたら、お掃除する人だけじゃなくて、近所の人も面白くないでしょう。だから違反したら、気づいた人がその家に可燃ゴミも不燃ゴミも投げ入れるようになる。そしてゴミ屋敷になって、家にカビが生えてしまった。では、それはいったい誰が悪いんでしょうか。もとはみんな非常識なゴミ捨てをした人が悪いんでしょう。たとえ裁判で勝っても、自己の非は責められますよね。思うほどの賠償は得られません。
さて、人は右、車は左は国法です。仏教では王法と表現します。非常識なゴミ捨てに対する制裁は世間法です。だから「若有悩乱者。頭破作七分」は、仏法の道理に迷う人は、目に見える形で国法や世間法の道理に背き、不幸になるということです。仏法は国法や世間法と違って目に見えません。電気と同じように過った使い方をしたら感電し、場合によっては死んでしまうのです。
「例えば三歳の子供がマッチで火遊びし、家も自分も焼いて死んでしまうのは世間法でしょうか」
ーーそうです。世間法になります。仏教では人間の精神面を〃心識〃といいますが、それが未だ発達していないので、自分にとって苦(害)か、楽(利益)か、あるいはどちらでもない(捨)の判断ができない。だから家も自分も焼いて死んでしまうんです。目に見えないから、知らないからといっても、国法や世間法は存在しているのです。仏法もそれと同じですが、一般人は容易に知ることができないから、苦悩を抱えて悶々とする。だから仏は透徹した智慧によって道理と非道理を見極め、法を説くのです。それが仏法です。
「裁判は弁護人と検察でずっと道理・非道理のせめぎあいが続くんですが、目に見えない仏法では、それをどのように解決するんでしょうか」
ーー何も難しく考える必要はありませんよ。正しい教えを正しく修行すれば、道理的に解決するようになるのです。朝夕法華経で唱える第十六章如来寿量品に説かれてあります。
どうしても仏にお目にかかりたいと思い、
命さえ惜しまなくなる。
その時に私と多くの僧は
倶に霊鷲山に出てくるのである。
私はこのように語る。
我自語衆生から仏の説法が始まります。説法の内容は、礼拝する当人がもっとも悩んでいるストレスの対処法です。だから現実世界で、目に見える形で、道理に則った正しい解決が出てくるのです。日蓮聖人は『白米一俵御書』の中で、次のように語っています。
若し深く世法を識らば、即ちこれ仏法なり。
やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。
この文の〃識らば〃ですが、識るは単に知ると違って、深い認識の上に成り立つ言葉です。それには物事の道理と非道理を明確に立て分けできなければなりません。仏法という法則は道理と非道理を峻別し、厳格な境界を置くことです。道理を、非道理をといいます。
日蓮聖人は法と非法・破法は左右の定まれる法として、法に対しては『有供養者。福過十号』と置き、非法・破法に対しては『若有悩乱者。頭破作七分』とめたわけです。
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日蓮聖人の曼荼羅は法本尊です。阿弥陀仏や観音菩薩と違って、人を本尊として礼拝する〃人本尊〃ではない。人本尊は阿弥陀仏にしても薬師如来にしても、寿命があります。真言宗の曼荼羅には胎蔵界と金剛界の二種類の曼荼羅がありますが、どれも仏・菩薩・明王等の絵曼荼羅だから、人本尊です。重力や斥力といった永続する法則が具わっていないから、永遠ではない。彼等の説く時間も空間も限定的です。
「つまり寿命のある人本尊に、永遠の時間と空間を託すことはできないわけですか」
ーーそうです。十字架上のイエス像に十戒全てを刻むことはできないでしょう。しかも彼は十字架刑のさなか、ユダヤ人大衆から『もしお前が神の子なら、十字架を外して下りてこい。それなら信じてやる』と言われた。しかしイエスは『エリ、エリ、レマ、サバクタニ(我が神よ、どうして私を見捨てられたのか)』と言って死んでしまった。つまり彼自身が説く神には、時間も空間も超えることができなかった。そんな人本尊に自分の死後の生命が救えますか。それに帰依して自分の全身全霊を託していいものでしょうか。よく考えてください。
「この世の境を超えてあの世に赴くとき、どんな者が自分を待っているんでしょうかね」
ーー今は末法だから、人本尊では全く救えない。日蓮聖人はそれがよく分かったから、仏像や菩薩像は一切造らなかった。
「弟子や信徒が釈迦如来像や法華経の四菩薩像を造りましたが」
ーーそれは方便として認めたわけです。聖人在世当時は念仏全盛期でしたから、多くの人が阿弥陀像を造り、その脇侍の観音や勢至などの菩薩像も造っていた。そういう世の雰囲気に抗して釈迦如来や法華経の四菩薩の像を造像するのは、なかなか殊勝な心がけであると思った。だからいちおう承認したのです。
さて、法というのは真理・存在の他に、法則の義があります。我々人間が生活するには、どうしても法則、つまり法が必要になります。
例えば『人は右、車は左』というものがあります。なぜそんな決まり事を定めるんでしょうか。
「そりゃあお互い事故なく、安全に道路を歩くためでしょう。公共の安定に絶対必要です」
ーーそうです。法は人を守るために存在するのです。でも酔っ払いが缶ビール片手に、人は右、車は左なんて誰が決めたんだ。しゃらくさい。俺が法律だ、俺が憲法だ、胡散臭いものは俺に通用せんとばかりふらふら左を歩いたら、どうなります。車に跳ね飛ばされるでしょう。ひき逃げされ、死んでしまうかもしれない。では、それはいったい誰が悪いんでしょうか。もちろんひき逃げ犯が悪いに決まってる。しかし酔っ払って気が大きくなり、ふらふら左を歩く人は悪くないのでしょうか。
「もちろん悪いに決まってますよ」
ーーだからそれが悩乱している証拠ですよ。その結果として頭破作七分、つまりひき逃げされたということです。要するに悩乱して物事の道理と非道理が分からなくなっている。だからふらふら左をさまよい歩き、自分の不利益を招いてしまう。そして不幸になるわけです。
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大学と各種の専門学校で、法律学、哲学、社会学、家族社会学、家族福祉論、初等社会、公民授業研究、論理的思考などの科目を担当しています。
KJ法、マインド・マップ、ロールプレイングなどの技法を取り入れ、映画なども教材として活用しながら、学生と教員が相互に学び合うという参画型の授業を実践しています。現在の研究テーマの中心は、法教育です。
私は命ある限り、人間を不幸にする悪と闘い抜く覚悟です。111歳までは、仕事をしようと決意しています。